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百嶋神社考古学を学びつつ古代の謎に挑戦中!

弟橘媛は生きていた!⑥千葉市中央区千葉寺町 瀧蔵神社

2018-08-14 Tue 23:22

とうとうこのシリーズも最後です。

ラストはこちらの神社!


瀧蔵神社

千葉市中央区千葉寺町162


瀧蔵神社は海上山千葉寺センヨウジの境内にあるのです。

神仏習合の名残りですね。

この千葉寺は和同2年(709)に行基が開山という伝承を持っている古刹です。行基が開山と聞くと俄かに産鉄臭を感じてしまいます。

空海も行基も良質な産鉄地を求めて房総を行脚したという説があります。

実際あちこちで井戸掘ったり、「芋」と暗喩される金塊絡みの伝承や「灰汁無蕨」伝承もあります。鉄分の多い地の蕨は灰汁が無くなるそうなのです。

そんなアヤシイ古代の高僧が開山という千葉寺に神仏分離後も奉斎されている当神社は、珍しいだけでなく鎮座しておくだけの特別な理由があったのではないかと考えてしまいます。


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立派な千葉寺の山門。

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モチーフはここでも「鳥」。

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そしてこちらが瀧蔵神社。

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御賽銭箱がカッコイイ!!

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囲いに阻まれて近くで写真が撮れなかったのですが(残念)彫刻も素晴らしかったです~(涙)


こちらの御祭神は海津見神

亥鼻山に千葉氏が築城した際には千葉家五守護神の一つで元は寒川に鎮座していたといいます。

別当寺は真福寺(現在は廃寺)。有名な「千葉笑い」という奇祭は、神事の夜に行われたといいます。この奇祭は人々が仮装し仮面をつけ、武士であろうが主君であろうが自由に批判しみんなで笑ってストレス発散するという祭りです。

家康がこの祭りでは誰が何を言っても咎めないとお墨付きを与えていたともいいます。ということは江戸初期にはあったという事ですかね。

時の治世者はこの祭りで名が出たら翌年は自らの行いを気をつけたそうです。

それだけ影響力を持った行事だったんですね。

しかし民衆が盛り上がっている中、一体どのような神事が執り行われていたのかが気になるなぁ~。


御祭神の海津見神は豊玉彦=天太玉のことです。

そして境内社に・・・


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青龍神社もあるのです。

百嶋先生によれば青龍大権現は豊玉姫のことです。

そうすると豊玉彦(天太玉)とは親子関係で、

海津見神=豊玉彦、青龍神=豊玉姫です。


境内社は記録によれば、

天神社 菅原道眞公

稲荷神社 豊宇氣比賣命

厳島神社 市杵島姫・田心姫命=豊玉姫・湯津姫命=鴨玉依姫

三玉神社 少彦名命=事代主

大杦神社 少彦名命=事代主

三峰神社 伊弉册命

八幡神社 誉田別命=応神天皇

道祖神社 猿田彦命=大己貴=ナガスネヒコ


現在の境内社は

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針供養塔・子安観音・大杉神社

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弁財天

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境内にあった八幡神社と思われる千葉寺付近の境外に鎮座する若宮八幡

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こちらも境外社の慶応4年(1872)創建の三峯神社

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境外社の道祖神社


稲荷神社も境外なのですが、明治期に千葉寺町から稲荷町へと地域区分が変更になっています。その為現在は違う町に鎮座しているのですが、それだけが理由とは思えないほど瀧蔵神社から離れた場所に鎮座しているので、記録にはありませんが遷座しているのかなぁと思われます。

この稲荷神社については境外社として紹介するには書きたいことがいろいろと盛り沢山なので別記事にしたいと思います。


さて、シリーズ1からあちこちの神社を調査してきましたが、弟橘姫が療養した地として可能性が高いのは「千葉寺」なんじゃないかなぁと。

地形的にも高台にあり、縄文海進時も地上にありました。

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行基が寺を開基した地という事もひっかかります。

パワースポットだったからという理由かもしれません。

ですが私は古代の大いなる一族に所縁の土地であったから保護した、という可能性もあるのではないかと思います。

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太陽と月と星を現わした三光紋。

北斗七星と太陽と月を現わした九曜紋。

(九曜の解釈はヒンドゥー教的な考えと千葉氏は違うと考えます)

彼らのトーテムはでした。


海洋民族には星を崇拝できる天文学の知識と、航海中に陸地を探すために用いる鳥は重要でした。

黒潮に乗って九州を出発し四国・和歌山・伊豆と拠点を築き、房総にやってきた人々は海人族であり忌部でもあり白族でもあり出雲系でもあり物部でもあり。

なんと表現するのが一番ふさわしいのか判断できませんが、文字でお伝えする以上できれば固定観念に囚われない言葉を選びたいので、仮称で「星の民」としましょうか。

百嶋神社考古学の扉を開けてから半年近く経ちましたが、百嶋先生の遺された資料や先輩方のブログや助言などから学ばせていただいてきた中で少しだけ見えてくるようになり、星の民の痕跡は県内のいたるところに発見できるようになりました。

それらを結んだり紐解いたりしながら、房総の古代の姿を垣間見れたらいいなぁ~と思います。


弟橘姫は生きていた!シリーズ 終







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弟橘姫は生きていた!⑤千葉市中央区宮崎町 宮崎神社と慈眼寺

2018-08-13 Mon 00:05

弟橘姫シリーズ、その5です~。

今回で旧蘇我町調査は終わりです。

宮崎神社

千葉市中央区宮崎町582

JR蘇我駅からだと徒歩で20分ぐらいですかね。

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階段の脇の植え込みの中に鎮座されている石宮。

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すごく広い境内でした。

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こちらは旧蘇我町宮崎字宮作に鎮座しておりましたが、別の記録によると宮崎町811番地にあった灌漑用水地(三ツ池弁天)に鎮座していたが都市化により土地を売却することとなり、補償金を元に現在地に遷座したそうです。

そして中央区の開発が激しく、元宮の地がどこなんだか不明です(汗)

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稲モチーフの鍵なんて意匠が凝ってますが、稲ということは稲荷も関係ある?


御祭神は天宇受賣命伊邪那美命の2柱なのですが、明治42年(1909)に字熊ノ台に鎮座していた熊野神社を合祀しているので、元々の主神はウズメノミコトだけであったと思います。

しかもですね、この後寄らせていただいたお寺の御住職情報によると、元は大宮神社だったそうなのです!

そうなるとこの神社のカラーがはっきりと見えてきます。

大宮神社ならば県内の同神社の御祭神は大己貴命かウズメノミコトです。

だからウズメノミコトなのね、と納得です。


た だ し 、

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男千木!!!

大己貴命もいるのかな~?

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神紋はなかったのですが、意匠でこのような紋がありました。

ちょっと唐花紋に似ている?


そして境内にはたくさんの末社や石宮がありました。

千葉市中央区は都市化が進んでいるので、開発地にあった小さな祠は全部移動させられてしまったのでしょう。

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お馴染みの社日塔。

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なんとビックリ!

神武天皇の石宮。

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山王さまなので大山祇命か大山咋命ですね。


記録によると境内社として

天神社 菅原道眞公

神武社 神武天皇

三玉神社 大名牟遲命・少毘古名命

三玉神社 大山咋命

があったようで、合祀した熊野神社の境内社たち(以下)

三玉神社 大名牟遲命・少毘古名命

天照大神社 大己貴命・少彦名命・埴安姫命・倉稲魂命

天照大神社 不詳

が移動してきているようです。


この三玉神社はおそらく御靈神社のことでミタマに当て字したのだろうと。

こういう当て字クイズにぶち当たると、ホント地名研究しといてよかったなと思います。なぜなら地名もこのような「言葉遊び」のような変換をしているものがかなりあるので、センスを磨かれます(笑)


さて、冒頭でも書きましたが旧蘇我町の神社はこれで一旦終了なのです。

が、須賀神社は発見できませんでしたね~。

記録では名があるのですが、石宮の神名が判読できない場合が多くてあったのかも、無かったのかもわからないという状態です。

ただ一つはっきりしているのは「この辺りには須賀神社を祀る人々がいた」ということです。

須賀神社の御祭神はスサノオですから、スサノオを奉斎する氏族がいたということがわかっただけでも結果オーライです。


あ、旧蘇我町にはまだ取り上げたい神社があるので、そちらはこのシリーズとは別に記事にしたいと思います。


先程ちらっと書きましたが、宮崎神社の別当寺であっただろうお寺にも寄ってきました。


慈眼寺

千葉市中央区宮崎町605

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太子堂です。


慈眼寺とえば産鉄民です。

「目がよくなる仏様」とか「見ると目が潰れる仏様」とかの逸話があれば確実に産鉄民と関係があったと思うのですが、御住職に聞いたらそういう話は伝わっていないと言われてしまいました、ガクリ。

まぁ宮崎神社も元宮地は別ですしね(と自分を慰める)

ハッキリわからなくて残念です。


都市部は本当に不明な事ばかりですし、古い資料がなかなか出てこないのですが、今後も調査は続けようと思います。


次がこのシリーズのラストです、最後までおつきあいください。





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弟橘媛は生きていた!④千葉市中央区花輪町 子安社、同区大森町 神明神社

2018-08-07 Tue 23:11

すみません、別の事を追いかけていて更新が滞ってしまいました(土下座)

弟橘姫シリーズ、その4です。


子安社

千葉市中央区花輪町258

前回の赤井稲荷神社から薬師堂を通過し、高台から谷津に降りていき川を越えて対岸の高台が花輪町になっています。 koyasu2.gif

おおお、段数が・・・!ひぃはぁ(汗)

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この写真の左側の崖がかなり崩落してきておりまして、

今後がちょっと心配です。


当神社は旧蘇我町小花輪字藤葉に鎮座していたお社で、「千葉県神社明細帳」によると御祭神は「不詳」となっています。

鷲宮神社といい、赤井稲荷神社といい、この辺に一体何があったんでしょうか(汗)

だって自分達が奉斎していた御祭神がわからなくなるって普通ありえないですよね。

あるとしたら、

①住んでた人達がそっくり移動してしまった

②秘密にしすぎて誰もわからなくなった

のどちらかですよ。


まぁ子安さまなので、御祭神はコノハナサクヤヒメかなーと思います。

さて、記録によると境内に須賀神社(石宮)と浅間神社(石宮)があるのですが。


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摩耗してしまっていて神名が読み取れませんでした。

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こちらは仙元大菩薩=浅間神社ですかね。

ということは、先程の石宮が須賀神社?

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こちらの石尊様は元禄7年(1694)に氏子さんからの寄進です。


この他、明治42年(1909)に日枝神社(字中峠)を合祀しています。

中央区の日枝神社の御祭神はほぼ大己貴命なので、こちらも大己貴命=ナガスネヒコかな?

苔が敷き詰められていて綺麗な神社でした。



お次はちょっと離れたお隣の大森町へ。

神名神社

千葉市中央区大森町115


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住宅街の中にあるー!

神紋は左三つ巴

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色が違うのは修復したからですかね。

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御祭神が天照大神=大日孁貴命=ヒミコなだけに彫刻も「菊」ですね~。

旧蘇我町大森字東名に鎮座です。

明治43年(1910)に日枝神社(字山王前に鎮座 御祭神:大山祇命)を合祀しています。


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記録だと境内社に須賀社、愛宕社、三峯社があるそうなのですが・・・

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うーん、摩耗してしまって神名の読めないお社が多いですね。


薄くなってしまった神名を判読する能力があるといいんですが(汗)

あ、弟橘姫シリーズはまだシツコク続きます(笑)




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弟橘姫命は生きていた!③千葉市中央区赤井町 稲荷神社・薬師堂

2018-07-24 Tue 23:11

お待たせしました!

弟橘姫は生きていたシリーズ、その3です。


赤井稲荷神社

千葉市中央区赤井町156


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道路沿いのココが入口です。

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すぐ傍に民家が。

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この石段を登り・・・

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こちらが拝殿です。

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扁額は「稲荷大明神」なのに・・・



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男千木、むーん・・・(`・ω・´)


この神社はWEB上で「稲荷神社なのに狛狐がない神社」として彼方此方で珍しがられておりました。

私もその点に引っ掛かりをおぼえていたので現地に取材にきたのですが、稲荷神社の御祭神は主に「ウカノミタマ」「ウケモチノカミ」「トヨウケヒメ」で、すべて女神様です。


そうすると本殿の男千木は「ホントは別の神様で男神なんです~」という無言のアピールであることになります。

現在こちらの神社の御祭神は倉稲魂命となっていますが明治12年(1879)の記録によれば御祭神は「不詳」です。

大正11年(1922)には八幡神社(誉田別命)と天神社(菅原道眞)を合祀していますが、こちらは後からの合祀ですから本殿の男千木には関係ないでしょう。


皆様、ここで前回の記事を思い出してください。

大巌寺は鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。」んでしたよね。

大巌寺から見て、この神社は東に位置しているのです。

もしかしたら、この神社が大巌寺の愛宕社だった可能性もあります。

そうならば御祭神はカグツチ=金山彦です。

金山彦といえば「鉄」です。

「赤い水が湧き出ているから赤井町」という地名由来は、地中に砂鉄が多く含まれる為、地下水に多分に鉄分が含まれ、空気に触れると酸化して赤く濁ることを指しています。当地にはとても相応しい御祭神です。


でも何故「不詳」となってしまったのか。


当地が産鉄地だと判明してしまうと都合の悪い人がいたんですかね~。

でも御祭神を隠してもバレバレなんですけどもね~(笑)


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境内神社は以下。

八坂神社(素戔嗚尊)

道祖神(猿田彦・塞の神)

疱瘡神(大山津見神)

金刀比羅大権現(大物主神【大国主神】)

天神社(菅原道眞)

子安社(木花開耶姫)


明治12年の記録では須賀神社・三峯神社・祖霊社もあったのですが現在は見当たりません。須賀神社、ホント見当たらないなぁ(汗)


さて、赤井稲荷神社の近くには、これまた産鉄地臭を強く感じさせる場所があるのです!

それがコチラ!!

赤井薬師堂

千葉市中央区赤井町425



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太子堂



薬師如来は薬壺を持つ仏様です。

古代の製鉄は火床を見続けているために目を悪くしたり、鞴フイゴを踏み続けるために足腰を悪くしたりと身体に負担の大きい、とてもハードな重労働でした。

そのため産鉄民は薬師如来を奉斎して健康を願いました。


よく「眼病に効く」とか「見たら目が潰れる」とか、お寺の名前が「慈眼寺」などの伝承がある御薬師様は確実に産鉄と関連があった御堂だと言えます。

また赤井町周辺は古墳が多く残り縄文時代から人々が住んでいたことが判明しています。

縄文時代は海進していて現在の内陸まで海でした。

一例として潮位を+20mでマップをみてみると、こうなります。

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赤井稲荷神社の傍まで海です。

次第に海が後退していった後には鉄分を多く含んだ砂鉄の浜が広がっていたことでしょう。

古代の千葉県は豊富な鉄資源に恵まれていたのです。





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上総国の龍宮 一宮町 玉前神社

2018-07-16 Mon 00:14

しばらく御無沙汰しておりました。

弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。


上総国 一宮 玉前神社

千葉県長生郡一宮町一宮3048

一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。

以下Wikipediaより。


式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558年-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。

江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。

1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。

1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。


取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。

そのため二種類の写真でお届けします。

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一の鳥居

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リベンジの日は丁度夏越しの祓の日でした。

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拝殿 黒塗です。

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拝殿と本殿を横から

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内陣、神紋は菊だけ

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左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった~!



さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、


「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命

「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命

「神社覈録」前玉命

「舊事記」振魂尊子前玉命

「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命


などなど。


記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。

ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。

地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。

では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。

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神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、

実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?

1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「」玉依姫。

2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「」玉依姫。

3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。


玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、

どの玉依姫なのかわからなくなり、

御祭神に関して混乱が生じているようです。

何故こんな状況になっているのか。

理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされ

ハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。

古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へと

すり替えられています。

この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。

母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを

伏せておきたかった。

そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。

ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で

鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。


しかし百嶋先生は生前、

玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であると

おっしゃっておられました。

今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・

ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)

そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、

周辺の地理も含めて調査を行いました。

その上で判明した事実から検証したいと思います。


まず神玉依姫とは一体何者なのかから。

彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。

そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり

神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。

玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。

御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。

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この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。

御神体も玉だといわれており、赤い玉説、黒い玉説があります。

また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、

その数は8個だったり12個だったり様々です。

共通しているのは「御靈代が玉」という点なので、

これは間違いないと思います。


玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、

海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て

玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。

(現在は12社が参加しています)

その六社は玉前神社の外、


鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)

南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)

二宮神社(茂原市山崎鎮座)

三宮神社(睦沢町北山田鎮座)

玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)


です。


この中で別格なのは鵜羽神社玉垣神社で、鵜羽神社の

御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。

例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。

「一宮町史」によると

鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。

とあります。

またこの日の直会の為に特殊な神饌を用意します。

一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。

二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。

また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。

これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。神使の鰐にあげているのだそうです。


現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は

鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るという

ストーリーになっています。

ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳が

おばあちゃんに会いにきていることになりますね。


ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?


コチラをご覧ください。

白子神社

白子町関5364


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「白」の字の点が龍の顔に見えます

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すごい彫刻と男千木


以下Wikipediaより

永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。久安3年(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5年(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。 宝暦12年(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。

白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、

「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で

星空で唯一動かない星であることから、

大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。

白子神社では「北辰大帝」と称しています。


この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである

「呉の太伯君」ではないかと考えています。


県内にたくさん星信仰の神社がありますが

北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。

白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。

族の孫の住む地、という意味でしょうか。


そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。

一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が

不明な鎮座地が多いのですが列記すると、


一宮町新地甲字龍宮下 → 諏訪神社がある

一宮町一宮字龍宮・下龍宮 → 八雲神社がある

一宮町東浪見字龍宮台 → 八坂神社がある

長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮 → 海神社

長生村一松戊 → 龍宮神社

白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台 → 龍玉神社

白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下 → 八龍神社

白子町幸治字龍宮 → 八大龍神社

白子町驚字龍宮下 → 面足神社がある

白子町剃金字龍宮台 → 八龍神社

白子町五井字龍宮台 → 八大龍神

白子町浜宿 → 龍宮神社

白子町南今泉 → 竜神神社

白子町牛込字竜神下 → 龍野神社

大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前

 → 八大龍王

九十九里町真亀 → 龍宮神社

九十九里町細屋敷 → 龍神社

九十九里町粟生 → 龍神神社・龍神社

以上19カ所。

龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が

祀られているかもしれません。

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地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、

厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、

そこには守るべき「龍王」がいた、

なんて想像するとワクワクしますね!!


でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。


それが「私幣禁断に類似する禁令」です。以下Wikipedia。

私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。

811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。

967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。

なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。

このことからわかるのは

①北辰信仰は一定の時期、禁止されていた

②北斗七星への星信仰は長く禁止されていた

③北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?

です。


これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。


白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。

それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。

やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。


そしてトドメの証拠なコチラ。

玉垣神社

睦沢町下之郷371


現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)


平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。

御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!

神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!

何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、

これも正体を隠そうとしての事だと思います。

これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、

大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。

玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に

参加している12社の中でも別格扱いです。

この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。


ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は

元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も

取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!

摂社末社も少ない!!おかしい!

と思い玉前神社の歴史を調べたところ、

永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、

玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて

海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。

なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と

対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。

途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を

明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、

村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)

その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが

天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、

里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。

(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)

では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座して

いたのではないかと考えています。


ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

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見えますか?

上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。

海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。

ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。


現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。

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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。

伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、

サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

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釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という

「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。

九州の伝承がそのまま伝わっているところからも

黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな~と感じます。

「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。

千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。


海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。

神洗神社

一宮町綱田

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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。

玉前神社の宮司さんも認めておりました。

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神洗池

長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、

真水は嬉しかったでしょうね。特に女性であれば猶の事。

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こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。

神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。



最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。

玉前神社の境内社

本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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●十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社

愛宕神社  軻愚突智命

八幡神社  誉田別命

三島神社  事代主命

白山神社  白山比売命

日枝神社  大山咋命

山神社   大山祇命

浅間神社  木花開耶姫

塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命

蔵王神社  大物主命

粟島神社  少彦名命

熊野神社  櫛御毛野命

水神社   罔象女命

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●三峯神社 不明

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●稲荷社  不明


白子神社の境内社

本殿の後方、左右に鎮座。

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●八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座)

 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神

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●面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座)

 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神






オマケ

今回の取材で一番のオドロキ↓

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イケメン様!!!

これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。







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弟橘姫命は生きていた!②千葉市中央区大巌寺町 浅間神社・鷲宮神社

2018-06-19 Tue 18:22

弟橘姫は生きていたシリーズ、その2です。


弟橘姫を救った一族の痕跡を求めて、蘇我比咩神社のある中央区蘇我からお隣の大巌寺町に向かいました。

大巌寺町はその名の通り大巌寺というお寺があります。


龍澤山玄忠院大巌寺

千葉市中央区大巌寺町180


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彫刻は鳥のモチーフと亀などもおります。

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境内掲示板より
当山は山号を龍澤山、院号を玄忠院といい、天文20年(1551)、千葉氏四天王の一、生実城主・原式部大夫胤栄夫妻を開基に、道誉貞把上人が開山となり創建された学問寺であって、江戸時代には関東十八檀林の一つとして栄えた。寺伝によれば、永禄3年(1560)に堂塔伽藍が整い、鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。この頃学寮は四十余りあったといわれ、寺領七十貫を有していた。境内の林中に大沢があり、昔から「龍が澤」と呼ばれていたので、当寺を龍澤道場(精舎)と名づけ、のち山号とした。これよりさき天文年中、下総国千葉郡生実郷のあたりを布教していた道誉上人は、かの龍が澤の水中に入り、念仏すること二十一日。ときに阿弥陀仏が金光を放って現れつぶさに宗の奥義を授けたという。この霊告のゆえをもって、浄土宗では上人を道誉流伝法の祖とし、当寺をその根本道場とした。



戦国時代の開基だからまったく弟橘姫に関係ないと思いますよね。


で す が !

当寺院を開基した原氏は千葉神社宮司であった粟飯原氏と同祖を持つ一族なのです!
原氏の出自は以下。

Wikipediaより
平常長の四男四郎頼常が、下総国香取郡千田庄原郷(現在の千葉県香取郡多古町原)を領して「原」を氏としたのにはじまるという。頼常には子が無かったので、兄である鴨根常房の息子である常宗が養嗣子として継ぐ事になった。この系統からは原氏のほか、飯竹氏、岩部氏、仁戸田氏、大原氏、佐野氏、鞍持氏が出ている。



粟飯原氏と同じく平常長の名が出てきました。この人ホントにアヤシイなぁ。
原氏は粟飯原氏と同様に一族の中では別格扱いで、千葉妙見宮について記された書、「千学集抜粋」によれば妙見社神前で行われた千葉氏宗家の元服式で原氏と粟飯原氏だけが御供を務める家柄でした。


さらに気になるのが「龍が沢」の存在です。

製鉄伝承には蛇が関係してくるのが常なのですが、蛇=龍で水神を指しているともいいます。
しかも阿弥陀仏が金光を放って現れるなんて、黄金を想像させますね~。

地形的に言えば大巌寺は隆起した丘陵に囲まれ、天然の袋小路になっていて、その奥地に龍が沢があります。妄想を膨らませるならヤマトタケルの時代は海岸線も近くにあり、海からの風が吹き込んで「野たたら」に必要な風が充分に吹き付ける立地であったのではないか。
古代の産鉄地であったことを知っていた道誉上人や原氏が寺院を建てて当地を保管した、なんて考えてしまいます。



本題に入りましょう。

寺院説明に「鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。」とあります。


この4社のうち、鷲明神(現鷲宮神社)と富士(現浅間神社)は大巌寺の近くに今も鎮座されています。客殿の天照皇太神他は神仏分離でどちらにいかれたかは不明、「天照皇太神他」のが非常に気になりますが、現時点では情報が入手できませんでした。



まずは当寺院の敷地内にある、浅間神社から。

大巌寺は隣接して淑徳大学・大巌寺幼稚園・慈光保育園等があり、今回訪ねた浅間神社の場所に行くには大巌寺からも抜けていけるのですが、初めての場合は大学正門から向かわないと物凄く迷います(経験者談)。

もし行かれる場合は休日は門が閉まってしまうので平日に大学正門から入って警備員さんに聞いてから訪問した方がいいと思います。


奥にあるテニスコートの脇を抜けて幼稚園の方に向かっていくと竹林の先にありました。


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写真だといまいち感じられないと思いますが、結構な急斜面の小山です。
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こんな感じです。


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お寺だけに元鳥居と思われる柱に輪宝が刻まれています。
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そしてこちらが浅間神社。


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ぱっと見た時は黒いのでカラスかと思い「八咫烏!?」とアタオタ(アタフタとオタオタの混合の意)したのですが、「あれ、首が・・・長い・・・」と気がつき、往時はここは鵜がたくさん住んでいて『鵜の森』と呼ばれていた事を思い出し、鵜かよ~!と思い切り脱力したのでした。
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本殿の中には木花開耶姫が2柱、弁財天が1柱いらっしゃいました。





浅間神社が鎮座しているこの小山は古墳だと言われているのですが、寺院の敷地内である為か発掘したことはないらしく、図書館で記録は発見できませんでした。

よくある伝説にガンガン山と呼ばれる音が鳴る山の話がありますが、これは山が実は古墳とか、土中になんらかの空洞があって音が反響する現象にちなみ名付けられたものなのです。

これを思い出し、「古墳なら音が鳴るかも!」と思い暫しジャンプ。




小山の上の神社の前で、ひとり一心不乱に飛び跳ねている私・・・目撃した人は、さぞ怖かったでしょう(笑)



音は聞こえませんでしたが、上にある神社まで登った傾斜感が市原市若宮7丁目にある高呂塚公園の古墳に登った感じと同じだったので、古墳である可能性は高いと思います。



過去記事 市原市菊間 若宮八幡神社②




続けて鷲宮神社です。


鷲宮神社

千葉市中央区大巌寺町96

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鳥居の前に道祖神の石祠です。


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この階段がかなーり左にナナメになってしまっておりました。
上り下り時はバランスに要注意です。


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階段の上がり口で狛犬達が見守ってくれています。
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シャッター使用の本殿は初めてでした。

本殿は小さいながらも彫刻が素晴らしく、二人の神様はそれぞれ龍、虎?に乗っています。
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すごく懐いている虎のような四つ足の獣



こちらの神社は元は生実郷オユミゴウ神社といい、鎮座していた郷の名前で呼ばれていました。

それよりも前は大巌寺により勧請された4柱の一つであった鷲宮社であったと思うのですが・・・記録によると鷲宮社は「大巌寺の西」に鎮座していたのです。
現在地を地図で確認すると「大巌寺の南」になっています。

記録がないので不明ですが


①別の社があった地に鷲宮社が遷宮した


②鷲宮社が火災などで焼失したため、大巌寺に所縁の社に合祀した


などが考えられます。

また当神社には大巌寺の4社の一つ、愛宕社が明治25年(1892)に合祀されています。

愛宕社の御祭神は不明ですが、市内の外の愛宕神社はカグツチノカミを祀っており、この愛宕社も同様だとするならば百嶋神社考古学ではカグツチ=金山彦です。


鷲宮神社の御祭神に関して現在は鷲宮大神とされていますが、明治時代の明細帳には不明と書かれています。

社号が「鷲宮」なので真の御祭神は天日鷲命または日本武尊が考えられます。
本殿の屋根瓦に使用されている神紋は右三つ巴でした。


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記録によればこちらの境内社に天神社と須賀神社があることになっているんですが、広い境内をウロウロ探し回ったのですが、それらしきモノは発見できませんでした。


境内はきれいにされていて氏子さんが定期的にお手入れしている印象を受けました。
ちょっと石の階段が今後崩れてしまわないか心配です。



シリーズはまだまだ続きます。


















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弟橘姫は生きていた!①千葉市中央区 蘇我比咩神社

2018-06-01 Fri 19:00

千葉に住んでいれば房総のヒーロー★ヤマトタケルを知らない人はいないと思います。

でもダンナさんよりも有名なのが弟橘姫です。


タケル一行を守るために東京湾に入水した姫の伝説は千葉県民なら一度は耳にしたことがあると思います。

Wikipediaより
倭建命が走水海に至った時、海は荒れ狂い先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘比売命は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったとする。


県内にはヤマトタケル・弟橘姫が由来となった地名や伝承・寺社が数多く残っています。
詳しく知りたい方は本館「総の国回顧録」の「伝説」の「ヤマトタケル」をドウゾ。

伝承では弟橘姫は海に身を投じて亡くなり、数日後浜辺に姫の身に着けていた衣の袖や櫛などが流れ着きます。それを祀ったのが創始ですという御縁起を持つ神社が幾つもあります。

袖ヶ浦市三黒に漂着した姫の御遺体を運んだ道中の伝承も多く残り、茂原市本納町の橘神社には姫を葬ったと伝える古墳もあります(別の説も有り
そんな中、こちらの社伝は異彩を放っています。

蘇我比咩神社

千葉市中央区2-2-7


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以下本館から。

社伝では日本武尊の東征の際、妃・弟橘姫が入水して海神を鎮めることができたが落命し御遺体が当地の浜に流れ着いた。里人が介抱したところ蘇生され「我れ蘇れり」と宣り給わったことから当地を蘇我の里と称したという。この他、弟橘姫入水の際、蘇我大臣の娘と都から同行してきた他の3人の姫も海中に身を投げ、蘇我大臣の娘は蘇我の海岸に打ち上げられ、他の3人も姉崎、五井、八幡の海岸に打ち上げられ里人の看護により回復、都へ戻れたという。その後応神天皇の時に当地の国造として蘇我一族が派遣され、蘇我比咩を祀ったのが当社の創祀ともいう。また一説には弘文天皇の御宇、壬申の乱で蘇我赤兄が当地に配流された際、祖神を祭り、のちに里人が赤兄やその妻子を祀ったのが始まりともいわれる。古い地名の「曽我野」から考えると当地は蘇我氏の部民が居住していたか、蘇我氏の出自の豪族が統治していたかの理由で氏神を祀ったことが始まりと考えられている。


県内では当神社にしかない「弟橘姫復活伝承」。
そして見え隠れする蘇我氏の存在。
もー確かめに行くしかないっ!、と鼻息も荒く向かいましたが、境内に入る前からムムッと唸ることに。

比咩神を祀る神社なはずなのに、見てください。
わかりますか?


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男千木!?


戸惑いながら道を進むと神社の御由緒の看板がありました。
こちらは神社の公式HPでも確認できるので割愛します。

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更に進んで鳥居の前に到着したものの、またしてもハテナの嵐です。

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・・・千代春稲荷神社???

携帯のグーグルマップで確認してみても間違えてはいないので宮司さんに確認したところ千代春稲荷とは御祭神の一柱で翌日が御縁日なので準備をしていたとのことでした~、ビックリした~。


神社でいただいたリーフレットによると御祭神は以下の通りです。

天照皇大御神(伊勢の大神)
蘇我比咩の大神(蘇我氏の祖)
春日大明神
  経津主神(建国の祖)
  武甕槌神(建国の祖)
  天兒屋根神(武道の神)
  天兒屋根比売神(武道の神)
応神天皇
千代春稲荷の大神(鎮火防盗の神)
御霊の大神(医術の神)

可哀そうに、応神天皇だけカッコ書きの説明がないですね。
本当の天皇じゃないし、仕方ないですね。
(百嶋神社考古学では本当の天皇と後から子孫が自分の先祖を天皇として系図に組み込んだ「(贈)天皇」がいます)

神紋は五七の桐。これは百嶋先生曰く、男神の神紋ですね。
ちなみに五三の桐は女神の神紋です。

社号を蘇我比咩神社としたのは明治になってからで天正19年(1591)徳川家康が寄進した時には「春日大明神」でした。長く主祭神は不詳とされていたため春日大明神を前面に押し出していたのでしょうか。

明治41年(1908)に神明神社(天照皇大神)、八幡社(応神天皇)、御霊神社(不詳)を合祀。明治42年(1909)に神明神社の境内社であった稲荷神社(宇賀御魂・稲荷大神・千代春大神)を合祀。
同年、八幡神社の境内社であった大三輪神社(不詳)を移設。大三輪神社は元々は曾我野陣屋にあったお社でした。
境内にある大山阿夫利神社(不詳)については情報が何も得られませんでした。

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その他境内には石碑の浅間大神と石祠(文字が摩耗して解読困難)・手置帆負命・馬頭観世音がありました。
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当神社の敷地の近くに三峯神社が鎮座しているのですが、いただいたリーフレットを見ると神社行事の中に三峰神社の名が見えるので摂社という事だと思います。
周辺の三峯神社の御祭神は伊弉册命なので、こちらの御祭神も同じではないかと。
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当神社は千葉荘の総鎮守であったといわれていて明治初期の神社明細に「古老口碑ニ鎌倉時代武將寄附地有リシト云フ」と記載があります。この寄付地が現在社殿が建っている場所なのかは不明ですが、もしかしたら寄進地に、当時別の場所にあった、または廃社になっていた蘇我比咩神社を遷宮または再建したのかもしれません。

非常に残念なことは文化年中(1804~1818)火災に遭い社殿神器、別当寺院のすべてを焼失(リーフレットによると明治の大火事で焼失)されている点です。火事に遭う前には弟橘姫所縁の神宝が存在したかも~。残っていれば御祭神や神社の歴史がハッキリしたのになぁ、残念。 

なにせ千葉市、古墳時代の事は謎に包まれています。
平安期にあった千葉郷・池田郷も郷域には諸説あり、はっきりしません。
唯一古い時代の事を知る手掛かりは寺社仏閣なのです。


それでは御祭神を見ていきましょう。
主祭神は蘇我比咩大神ですが、長らく不詳とされてきました。
房総各地に残る伝承では「亡くなった」とされている弟橘姫ですが、当社の社伝だけ「生きていた」とされています。

本当はどちらなのでしょうか?

じつは、お隣の茨城県には、次のような伝承があります。

Wikipediaより
『常陸国風土記』においては、彼女は大橘比売命あるいは橘皇后、夫の日本武尊は倭武天皇と表記されており、天皇、皇后と称されている。行方郡条に、「又、倭武天皇の后、大橘比売命、倭より降り来て、この地に参り遇ひたまひき。故れ、安布賀の邑と謂ふ」とし、倭武天皇が倭から降ってきた大橘比売命と安布賀の邑(現在の茨城県潮来市および同県行方市)で再会したことが、多珂郡条には、「ここに、天皇野に幸し、橘皇后を遣りて、海に臨みて漁らしめ、捕獲の利を相競はむと、山と海の物に別れて探りたまひき」とあり、倭武天皇が野に、橘皇后が海に別れて狩りを競い合ったことが記されている。


ヤマトタケルは千葉の東京湾側で阿久留王と戦った後、船で玉浦(現九十九里海岸)へ渡り、山武市辺りで現地のエビスと戦闘し、さらに北上し常陸に向かっています。
身を投げた弟橘姫が生きていたとして体力が回復するには相応の時間が必要ですから、常陸で合流したという伝承は事実である気がします。

えっ待って!
弟橘姫が生きてたという事はタケルは誰の亡骸を運んで埋葬したの?という事になりますね。
ここで「姫と一緒に複数の姫が飛び込んだという伝承」が当てはまるのです。
浜辺に討ちあがった水死体は弟橘姫か他の姫か判別できない状態だったと思います。姫と間違えて埋葬したと考えられます。
生きていた弟橘姫の話が航海士達に伝わり、船霊信仰の切欠となっていたりして。


弟橘姫の出自は百嶋神社考古学では父親が忍山宿禰=物部宗家・ウマシマジ、母親は師長姫です。
ウマシマジの生母は支那津姫=辛国息長大姫=豊受大神
父親は長髄彦、妹はヒミコ宗女イヨです。
一方弟橘姫の母・師長姫の母は息長水依姫、息長水依姫の父母は天兒屋根、豊受大神です。
つまり弟橘姫は母系と父系の両方から豊受大神のDNAを継いでおり、天兒屋根から多氏、長髄彦から姫氏のDNAも継いでいるハイブリッドなのです。

その上イヨは孝霊天皇の妃になっているので弟橘姫は非常に天皇家に近い人物なのです。
そんな事実や千葉氏が支配する以前の当地周辺の歴史を詳らかにされたくない誰かさんの目を逸らす為に隠した、もしくは誰かさんの命令で弟橘姫のことは隠されたということですかね。

また境内社の御祭神は主祭神に所縁の神様が祀られるので、そちらからも検証が可能です(後から合祀された御祭神は除外します)。
見ていくと豊受大神の父親はスサノオですが、石碑にあった手置帆負命=スサノオです。
摂社と思われる三峯神社の御祭神が伊弉册命ならば伊弉册命はスサノオの母なのです。

そして、浅間大神。
むーん・・・ここにいらっしゃるという事は、やはりそうなのか。いまブログ「常陸国ふしぎ探検隊」の河野隊長さんが唱えている「木花開耶姫=豊受大神」説を肯定するために証拠集め中なのです。千葉の神社もアチコチ取材してきているのですが、もしかして、そう?な感じなのですが、絶対そうだよね!と言える程の証拠が揃っていないのです。今回のこれも証拠の一つになるのかな。
そうそう、弟橘姫を隠すためのカモフラージュであったと思われる春日大明神も経津主神=長髄彦、武甕槌神=天兒屋根、天兒屋根神はそのまま、天兒屋根比売神=豊受大神です。
これだけ血族が集まっているのですから蘇我比咩大神=弟橘姫で確定!と言いたいところなのですが・・・

「蘇我大臣の姫」という伝承はどこからきたのか?です(悩)

うーん、以下私の憶測です。
スサノオには「清々しい(すがすがしい)」というフレーズがついてくるのですが、この「スガ」が「須賀」や「素加」と変化します。須賀神社がありますが御祭神はスサノオですね。そして「スガ」は転訛して「ソガ」にもなります。
地名学ではスカもスガもソガも同様の意味で砂州や干潟を指します。

当時の地形が干潟になっていて「スカ」と呼ばれていたとも考えられるのですが、別の方向から発展させると蘇我比咩神社の前身は須賀神社だったのではないかと。
姫を助けた人々はスサノオを祖とする人々だったんじゃないかと思うのです。
姫が生還した後、当地に蘇我氏の関係者がやってきて「須賀」が「蘇我」に変わってしまったのかもしれませんし、須賀比咩神社だったのが、蘇我比咩神社に転訛したのかもしれません。

このように考える根拠は蘇我周辺の神社だけに「須賀神社」の石祠があったからなのです。
過去形なのは本には記載があるのに、現地調査では発見できなかったからです。
神名部分を削られている石碑がある所もありましたが、それが須賀神社の物かはわかりません。
誰かに意図的に隠されたと感じています。

もう一つの可能性は山下影姫です。
百嶋系図には「蘇我姫」と記載されているのですが、彼女は孝元天皇の妃です。
時代的には弟橘姫と同世代ですし、もしかして東国に船で?とも思ったのですが・・・彦太忍信関連はもっと調べてみてからでないとなんともわかりません。特に古事記・日本書紀でも実在の人物と思われないように仙人風に書かれている武内宿禰が絡んできますし、今の私にはお手上げです
もっと勉強します


さて、後から合祀された祭神不明の御霊神社ですが神社のリーフレットによれば「御霊の大神(医術の神)」となっています。
これをヒントに推測すると御霊神社=ミタマ神社=三玉神社ではないかと。
三玉神社は蘇我比咩神社周辺の幾つかの神社に境内社として祀られており御祭神は「少彦名命」、または「大名牟遅命・少彦名命」となっています。
医術の神ならば少彦名でしょうか。


と こ ろ で 
蘇我比咩神社は延喜式内社の一つですが、式内社ということは非常に古くから鎮座していたということになります。
ですが・・・下の地図の通りタケルが活躍した時代に神社のある地は海底なのです。
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海進の度合いは県内に残るタケル伝承を踏まえて地形的に合わせてみた結果となっています(陸地の隆起・沈降はここでは考えておりません)。

では蘇我比咩神社は元々どこにあったのか?

浜辺に漂着した弟橘姫を救った人々はどこに居住していたのか?

元宮の地を探すべく、付近の神社を取材してみました。(つづく)






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今年は千葉常胤生誕900年

2018-05-24 Thu 15:51

この数年、千葉氏推しを進めている千葉市。

今年は千葉常胤生誕900年ということで今週の土日に第2回千葉氏サミットが開催。

福島相馬野馬追の騎馬隊が千葉神社を目指して街中を闊歩したり、記念講演があったりといろいろ企画があるようです。

そして今週月曜日。

街中を走るモノレールを見て噴きました。

千葉モノレール開業30周年」×「千葉常胤生誕900年」×「北斗の拳35周年」コラボレーション企画開催

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確かに「ともに北斗を目指すもの」ですしね(笑)

本当に千葉氏と北斗の拳がコラボするなんて、妙見神もビックリですね。



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千葉市中央区院内 千葉神社

2018-05-13 Sun 23:23

往時は粟飯原氏が取り仕切っていた、こちらの神社。

千葉神社
千葉市中央区院内1-16-1

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本殿
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こちらは分霊社の尊星殿 カラフルな御幣が五つ
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本殿二階にある扁額


御祭神は主祭神が北辰妙見尊星王(天御中主神)
相殿に経津主尊・日本武尊をお祀りしてます。
神文は三光紋と九曜紋。
元は北斗山金剛授寺でしたが明治になり寺社分離の際に例祭を存続する為に神社となったといいます。

Wikipediaより
千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立され、千葉氏の祖・平忠常の子・覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝えられる。以降千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。



摂社・千葉天神(菅原道真公)。
新しい社殿が出来た際、元の本殿を天神様専用にしたそうです。
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境内社は以下(【 】←カッコ内は百嶋神社考古学にて解析した祭神名となります)。
姥神社 妙見様の姥(乳母)【 ? 】
星神社 星香々背男神【長髄彦】
石神社 磐長姫【阿加流姫】
金刀比羅宮 金山彦・大物主(または大国主神・大黒様)【金山彦・大国主】
稲荷神社 稲倉魂命(または宇迦之御魂神)・保食神(または大宜都比賣神)・稚産霊神【豊受比賣と神大市姫】
西之宮 事代主神(または恵比寿様)【大直根子】
八幡神社 誉田別命【後世子孫によって天皇の称号をかってに贈られた天皇、贈応神天皇】
日枝神社 大山咋命【大山咋命】
三峰神社 伊邪那美神【伊邪那美神】
神明神社 天照皇大神【天照皇大神】
御嶽神社 国常立尊・大山祇神・瓊瓊杵尊【大幡主・大山祇神・瓊瓊杵尊】
厳島神社 市杵嶋姫命(または弁天様)【市杵嶋姫命】
美寿之宮 水御祖大神【 ? 】
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社日塔もありました。
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境内社の勧請年代は新しい物からだと
美寿之宮が平成21年(2009)の勧請。
明治から江戸時代にかけてだと
明治15年(1882)に神明社、
明治4年(1871)に御嶽神社、
天保11年(1840)金刀比羅宮、
文正5年(1822)三峯神社、
天明2年(1782)西之宮。

千葉介常胤が頼朝と共に活躍した治承年間から寿永にかけてが以下。
寿永元年(1182)厳島神社、日枝神社、天神社、星神社、
養和元年(1181)八幡神社、
治承3年(1179)稲荷神社。

乳母神社と石神社は年代不詳ですが本殿の妙見神と同時期に奉斎されたといいます。しかし明治初期に編纂された神社明細帳には、この二つのお社は記載されていません。当時は秘密だったのでしょうか。
御祭神についても神社の公式HPに石神社は「磐長姫」と記載されていますが、姥神社は「妙見様の姥(乳母)」としか書かれていません。

乳母といわれて、すぐに思い浮かぶのは鴨玉依姫です。
異母姉・豊玉姫が産んだ子・ウガヤフキアエズの乳母でした。
千葉一族に伝わる妙見縁起では妙見神は童子の姿で顕現したといいます。童子=ウガヤフキアエズを指していると思われますが、鴨玉依姫の名を出してしまうと妙見神の正体がすぐにバレてしまうので名を伏せたのでしょうか。
一方石神社の御祭神は磐長姫=アカル姫=大宜都比賣命なので、粟飯原氏が奉斎していたことには納得です。

相殿におられる房総のヒーロー★日本武尊について、百嶋神社考古学では日本武尊の父が天足彦。
天足彦の父は天兒屋根命で母はオキツヨソタラシヒメです。
オキツヨソタラシヒメは豊玉彦=天太玉命と婚姻関係にあったので、
天足彦も血の繋がりがなくても忌部の一員です。


では忌部系神社の御祭神に、何故物部系の経津主命がいるのか。
これには千葉神社創建に関わる伝承があります。
経津主は境外末社・香取神社の御祭神として千葉神社の東側に道路を挟んで鎮座されています。

香取神社
中央区院内2-17-35

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仁和元年(885)村人により勧請されたと伝えられ、妙見宮を創建する際、香取神社の境内地を譲ってもらったという経緯があるそうです。

千葉市誌より
北道場より千葉神社の境内は往昔一円に之を香取山と称し、妙見寺は即ち香取山の一端にあったという。



往時は千葉神社境内および字香取山の地を合わせて香取山カンドリヤマと呼んでいたといい、香取神社は千葉神社の地主の神であると考えられているそうです。
その為8月の妙見大祭では祭りの前に香取神社に神輿が渡御し、正式にご挨拶をするという神事があり、この時、神輿は千葉神社の鳥居は香取神社の物として通行せず脇門から出入りし、香取神社での神事が終わってから鳳凰の飾りを取り付けるそうです。祭りが終わって鳳凰を外すときも同様です。
神輿も香取神社の前では対面して置かれ、他の社の前では背を向けて置かれます。

百嶋先生は経津主=山幸彦だとしています。
私は山幸彦=大己貴=大国主=ナガスネヒコと考えています。
千葉の郷土史家・和田茂右衛門さんは著書の中でおそらく中臣系の人が当地にいて香取神社を勧請したのだろうと記していますが経津主は元々物部系の人々が奉斎していたので、当地は物部氏の勢力圏であったと考えられます。
ここから比較的近い場所に物部氏の古代の郷がありました。

千葉市のお隣、四街道市の物井付近に物部郷、同市山梨付近に山梨郷があったとされ鹿島川沿いは物部エリアでした。
地名にも四街道市物井・印西市物木が残っています。
四街道の香取神社は鹿島川が物井から枝分かれして山梨方面に流れていく支流沿いに点在しています。

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物部はどういう理由で土地を譲渡してくれたのかを考えると、物部宗家はウマシマジですが、両親を辿ると父はナガスネヒコ=経津主で母は豊受大神=大宜都比賣です。
同族と言ってもいいぐらいの近しい間柄であった両一族。
平安時代は地位を落とされて久しかったでしょうから、東国で互いに支え合っていた関係だと思います。
だから快く社の土地を譲ってくれたのではないでしょうか。


さて、御祭神について幾つかの謎が判明しました。
まずは和田茂右衛門さんが千葉神社の妙見神について著書の中で記している情報から。

「社寺よりみた千葉の歴史」和田茂右衛門より
また寒川神社宮司の粟飯原氏は、良文の頃妙見尊に供奉した粟飯原文次郎常時の後裔、妙見社神職の粟飯原右京の曽孫です。粟飯原氏の所蔵する絵巻の御影は、亀も蛇も剣もない立像で、倭文神といわれ、妙見社の本尊として伝えられています。香取神社の別当寺であった伽藍山歓喜院と関係すると考えられます。
(中略)
寒川神社宮司粟飯原家に伝わる、延宝8年(1680)千葉妙見社神職粟飯原右京の署名がある「千葉妙見社元由」という縁起書をみると「妙見社神体倭文神鎮星」とあり、この倭文神はシドリノカミ、シズリノカミと呼んで、天羽槌雄命、天建羽槌命と申し、機織の祖神にして、倭文氏の遠祖です。



天羽槌雄命は武葉槌命のことで正体は木花咲耶姫だと考えています。その証拠に千葉神社にある千葉天神の御賽銭箱に・・・
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白抜きで入っている三光紋と山のマーク、見えますか?
よく板碑の浅間神社に刻まれているマークです。
なんでココに?と思っていたのですが、サクヤ姫がいますよ、というシルシをこっそり入れてあった?

ならば千葉の妙見様は女神さまなのかといえば、違います
現在の千木は元本殿の方も併せて鰹木は男の神様を現わす奇数、千木も外削ぎで男千木となっております。
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主祭神は男の神様なのは間違いないのです。
それは例祭に関する事柄からもわかります。
千葉神社の8月の大祭は別名「一言妙見大祭」と呼ばれていて、祭りの期間中、何か一言願をかければ必ず叶うとされています。
どこかで聞いたフレーズですね、そうです、

一言主神です。

一言主神はアジスキタカヒコネとも事代主ともいわれています。
事代主は阿波粟飯原氏の系図にも出てきました。
千葉神社の境内社に西ノ宮(御祭神・事代主)が勧請されたのは天明2年(1782)で境内社の中では新しいですが、何時から「一言妙見大祭」と言われるようになったかですね。
これが判明すれば西ノ宮が勧請される以前から秘密に事代主が祀られていたという事になり、妙見神=事代主の可能性もあります。
ちなみにアジスキタカヒコネであったならアジスキタカヒコネ=ウガヤフキアエズなので、妙見神であれば乳母=鴨玉依姫の問題もクリアしてしまいます。

何か、何か証拠は・・・!!!

とジタバタしていてフト思い出しました。千葉神社から分祀した神社が市内にあったことを!!
それがこちら、櫻木妙見宮です。

櫻木妙見宮
千葉市若葉区桜木3-23-4

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こちらにある神社の由緒を刻んだ石碑の文面を以下に。

神社の誌
昭和廿六年四月一日 都小倉加曽利各町一部が合併 櫻木町と改む 並に千葉妙見神社より分霊を奉斎し当町神社として日夜崇敬の誠を奉祀つつなりしが 同丗一年発起人並に世話人十宥余人の熱意により部落民一同協力 敷地を求め社殿の建設を図り 皇太子殿下御成婚の意義深きを期し 同三十四年社殿を作り十二月完成を見 遷座祭を執行 櫻木妙見宮と命名 永に御守護を仰ぐ   昭和三十四年十二月 氏子



そしてこちらの御祭神は妙見神ではなく大国主命と事代主なのです。

千葉神社の妙見神とは、二柱の神様が合体した合体神なのかもしれません。
いや、サクヤ姫も含めて三身一体なのかも。

千葉では聞かない神様ですが、九州に田神様(タノカンサー)がおられます。
この神様は実は合体神で、正体は大幡主と大山祇だと百嶋先生が見破っておられます。
別々の氏族のリーダーであっても婚姻関係を結んだことから非常に親密な間柄となり、後に一身同体の神として祀られています。

大国主と事代主の正体も、大国主=父・ナガスネヒコ。
事代主=子・大直根子ですから、一身同体となってもおかしくはありません。
またここの事代主がアジスキタカヒコネ=ウガヤフキアエズであったとしても、やはり父はナガスネヒコなのです。
ただ、そこにサクヤ姫がどういう理由で含められているのかが皆目見当がつきません。
近隣の重要な神社にもサクヤ姫は関係しており、千葉での立ち位置が不明で本当に毎日、昼も夜も仕事中も(おい)サクヤ姫のことばかり考えています。

木花開耶姫。
別名カグヤ姫=赫夜姫・赫映姫・赫奕姫。
赫が映える、なんて溶鉱炉で溶けた鉄を思い起こさせる異名です。赫い夜も三日三晩など炉の火を絶やさない製鉄工程を連想させます。赫奕に至っては「光り輝く」という意味です。これも製錬した後の鉄を想像させます。
やはり鉄鋼王・大山祇の娘です、製鉄に関わる名前だな~と感じます。
武葉槌も同様に製鉄関連だと考えていて、「葉」は製鉄に欠かせない篠や竹を指しているのかなとか、槌をふるう雄々しい姿から女性でありながら「雄」を付けた名前、「天羽槌雄命」とされたのかしらなどと妄想してしまいます。
機織神でもあるので機織りの機械に必要な部品の小鍛冶をしていたのかな、とか。

しかしナガスネヒコと、どのような関係だったのか?
百嶋先生は系図では何も語っておられません。
ですが、絶対どこかにヒントがあるはず、これからじっくり取材していこうと思います。


話が逸れましたが冒頭のこちらの写真を思い出してください。
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五つの御幣。
大国主・事代主またはウガヤフキアエズ・木花開耶姫・経津主・日本武尊とすると、

ぴったり五柱!

千葉神社の尊星殿の二階は開運殿といい特別な祈祷を受ける人だけ入ることが許される場所で、妙見神の御分霊をお祀りしていて、室内は妙見神の御神気に満ち満ちているとHPにありました。
その二階の位置に飾ってある五つの御幣。
一瞬戦隊ヒーローが脳裏をよぎりましたが(色合い的に)、五柱ですよという暗示としか思えません。

これからは御参りした時に五柱の神様を思い浮かべて、手を合わせてこようと思います。




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ひ み つ

2018-05-07 Mon 17:51

実はだいぶ前から存在は知っていたのですが、現地調査になかなか行けず保留してました。

とても秘密な御祭神をお祀りしている神社なので、場所及び神社名は記載しません。

(管理されている宮司さんに、ご迷惑をお掛けしてしまうかもしれないので)




その一。
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こちらのお社、どなたがいらっしゃると思いますか?
なんと細姫をお祀りしているのです。
記録には「××皇孫尊」とあるのです。
千木も平削ぎで、確かに女神が祀られています。




その二。
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こちらの御祭神は「高良玉垂命」です。
百嶋神社考古学では神功皇后の夫でいらっしゃる開化天皇です。

取材中、到着時から社殿のすぐ傍の木立で、ずっと鶯が鳴いてくれていて歓迎されているのかな~と思いました。
拝殿奥にある御幣が二つあるので二柱お祀りされているのだとしたら、玉垂命と神功皇后でしょうか。
本殿脇の彫刻は沢瀉でした。


本当に小出しですが、荒されてしまうと悲しいので。
バッタリ出くわした際には、御賽銭を多めにお願いします。
管理されている方も大変だと思いますので。
そして皆様の心の内に留めるのみにしましょう、この国の真の歴史を守るために。

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