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百嶋神社考古学を学びつつ古代の謎に挑戦中!

日本武尊に関するお問い合わせについて

2019-01-14 Mon 14:54

ここのところ本館経由で日本武尊に関するお問い合わせが続いております。

なんでしょう、2019年は日本武尊イヤーなんでしょうか。


お問合せくださった方には申し訳ないのですが、これまで自分が調査してきた「地名」と現在進行形で調査している「神社」に関わる中でタケル関係の物が多かったのでついでにタケルの伝承をまとめたページを作成しただけで、今のところそんなにタケル調査について情熱はありません。

そのためどの書籍に何が載っていたという事も控えておりません。

タケルに関しては多くの方が調査しておられますし、どちらかというと私は嫁の弟橘姫を調査する方に魅力を感じています。

今年も蘇我氏に迫るつもりですしね!


過去に参考とした本につきましては本館のトップページをスクロールして頂くと、メールフォームの下にずらずらと記載しております。

その中のどれかだと。


ただ続けてお問合せがありましたし私も常々考えてはいたのですが、今年から「神社」の調査と並行して「伝説・伝承」調査にも本腰を入れていこうかと考えています。

この二つは同時にやっていった方が効率がいい事に今更気が付きました。

ただ更に時間と手間がかかりますがね・・・(遠い目)


亀の歩みですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。





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考えすぎ その1 応神天皇の正体

2018-12-08 Sat 18:08

結論から言うと

應神天皇=大山咋命

なんじゃないかな~、と。


何故こう考えるに至ったか、順を追ってご説明いたします。

千葉市緑区には誉田町という地区があります。

この誉田は明治22年に公布された町村制に基づいて合併した6村にそれぞれ八幡宮があったので、御祭神の誉田別命にちなんで「誉田村」に改称したことに由来しています。

八幡神社にお祀りされている誉田別命ホンダワケノミコトは第15代應神(応神)天皇のことです。他にも品陀別命・大鞆和気命オオトモワケ・胎中天皇などの呼び方もあります。

創作物語である古事記・日本書紀では神功皇后と仲哀天皇の皇子という配役になっています。


まず疑問に思ったのは市原市八幡の飯香岡八幡宮の記事を書いた時です。


過去記事「市原市八幡 飯香岡八幡宮」


当八幡宮の御祭神は誉田別命・息長帯姫尊・玉依姫尊他となっていました。

息長帯姫=神功皇后は創作物語の中では母親という配役になっているので三柱の内の一柱なのは理解できます。

ですが何故玉依姫が入ってくるのか?

創作物語の中で誉田別命と玉依姫に家族関係はありません。

ならばリアルで関係があった人物だと考えました。


百嶋神社考古学では実は「玉依姫」は三名の総称になっていて別々の人物です。初代天皇・神武天皇の母であり上総国一宮玉前神社御祭神である「神」玉依姫

八咫烏である豊玉彦と櫛稲田姫の間に生まれた「鴨」玉依姫

鴨玉依姫と父・天兒屋根命と母・市杵嶋姫の間に生まれた島根県佐田神社にお祀りされている佐田大神である大山咋命との間に生まれた活ハエ」玉依姫


誉田別命と一緒におられる玉依姫は、どの玉依姫なのか?


ここからは消去法を取りました。

まず神玉依姫の場合、子が神武天皇です。初代天皇とされていますから違います。

活玉依姫は百嶋先生は崇神天皇と兄弟とされています。崇神=ミマキイリヒコは贈天皇ですが、すでに登録されているので違います。あとは活玉依姫の夫・事代主という可能性が残ります。

鴨玉依姫の場合、前夫・ウガヤフキアエズ、後夫・大山咋と三名候補がいます。まずウガヤとは叔母と甥という関係でありながら身籠ってしまったという、あまり公表できない関係でしたから二人を並べるような記録の仕方はしないと思います。


すると候補として大山咋・事代主が残ります。

ここで注目したいのが崇神天皇の存在です。

百嶋先生は後世の人が崇神に神武の手柄をすり替えているとおっしゃっておられます。ということは後世創作物語を書いた人々は崇神の「格」をとにかくあげたかったのだという意図が見て取れます。「所知初國御眞木天皇ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」という名前からも力の込め方がわかりますよね。そういう立場の崇神を中心としてみていくと意外なことにリアル父親である大山咋が贈天皇になっていないことに気が付きます。


大山咋は阿蘇一族=多氏・中臣氏にとって非常に重要な存在であったと思うのです。新羅王朝の骨正ウズマサであるスサノオ、その姉・神俣姫を母とし、黎族の河伯ハベク・神沼河耳を父として生まれた天兒屋根命

スサノオと異父妹・阿加流姫との間に生まれた市杵嶋姫

この二人の間に生まれたのが大山咋です。新羅王朝である昔氏ソクシの血が色濃く流れているのです。家格を上げたかった黎族=河伯=多氏には貴種なのです。


創作物語の作者であった多氏であろう太安万侶の筆にも熱が入った事でしょう。

そうして劇的で鮮烈で他のどの天皇とも異なる逸話を持った天皇・應神天皇が生まれたのではないでしょうか。逆に言えば、應神天皇登場を山場に持ってくるために古事記日本書紀は書かれたのかもしれません。

應神天皇=大山咋と神功皇后の関係はいまのところ不明ですが、もしかしたら大山咋が半島に行っている時に現地の女性との間に子が生まれ、その子が沾解尼師今の系統と婚姻関係となった可能性はあります。そうすると大山咋の子孫が神功皇后という事も考えられます。


神功皇后と仲哀天皇が夫婦であったという事がリアルなのか創作であるかは不明です。ですが神功皇后と高良玉垂命=開化天皇が御夫婦であったこと、お二人の間に生まれた御子の一人が仁徳天皇であったということは百嶋先生が調査の結果辿り着いた真実です。



さて、他の視点からも考えてみましょう。

多氏の立場からするとスサノオの甥っ子にあたる天兒屋根は一族のプリンスです。そしてコヤネの子孫の男性のほとんどに天皇の称号が贈られています。


御年神(贈 孝安天皇)

大足彦(贈 景行天皇)

稚足彦(贈 成務天皇)

生目入彦(贈 垂仁天皇)

仲足彦(贈 仲哀天皇)


御年神はコヤネの息子。その子が大足彦です。

そして稚足彦は大足彦の子です。

生目入彦はコヤネの子・天忍日の孫になります。

仲足彦は父は日本武尊ですが、母が大足彦の娘・五百木入姫だと思われます。通説でいうフタジノイリヒメです。

このように贈天皇はコヤネのDNAを受け継ぐ人物がほとんどです。逆に解釈すれば、この事実からも当時の政権はコヤネを祖とする一族が主導権を握っており、自分たちの出自を華々しい物にするために記紀を創作したことも明白になるのです。


上記の顔ぶれからもご理解いただけると思いますが、大山咋が入っていないですよね。あれだけ持ち上げた崇神天皇の実の親である大山咋をこの流れに組み込まないということの方が不自然です。崇神を神武と並ぶ偉大な天皇とし、大山咋を應神=胎中天皇とすることで黎族のスーパースターとしたのだと考えます。


さて、誉田別命には気比神社に残る「名前を取り換えた」という有名な伝承があります。以下Wikipedeaより。


武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという。


これは名を取り替えたという単純な話ではないと思うのです。

百嶋先生はイザサ=スサノオとしておられます。スサノオは出雲系の代名詞です。そのスサノオと名を交換した、と伝承ではされていますが、これは「名を返した」という意味ではないかと思います。江戸時代は家によっては代々同じ名を襲名しています。名を継ぐ=家督を継ぐということですね。大山咋がイザサの名を継がずホンダワケになったという意味は「出雲系」の家督を継ぐことを拒否したという意味なのではないでしょうか。


ホンダワケは漢字でいろいろ書かれますが、中には品多和気と書かれる場合があります。「品」という字はクサとも読み、クサ=草=カヤ=伽耶で大山咋が半島で勢力を持っていたことの暗喩になっていると思うのです。百嶋先生も大山咋はあちらに行っていたということを講義の中でおっしゃっていました。そして「多」は黎族である多氏を指しているのではないでしょうか。

つまりホンダワケとは「伽耶の多氏の分家」という意味で、大山咋が出雲一族ではなく「倭国の多一族の者だぞ!」ということを意味する伝説だと思います。

ホンダワケは千葉県では八幡神社以外にシラハタ神社の御祭神として奉斎されています。ですが本来八幡神社の御祭神は大幡主ですし、シラハタ神社も千葉県においては日本武尊を祀るのが正当なのではないのかなーと感じています。

シラハタ神社に関しては頼朝の所為で「白幡」が源氏の「白旗」にちなんで改称されていたり、頼朝が御祭神になっていたりと混乱状態です。


さて、最後に應神天皇=事代主ではないかという可能性ですが、彼の父は大己貴=ナガスネヒコ=懿徳天皇です。正統九州王朝の血を引いている彼を、多氏が系図にわざわざ組み入れることはしないと思います。

事代主は百嶋先生はオオタタネコとしているのですが、まったく謎です。県内にも事代主やオオタタネコを祀る社は少なく、よくわかりません。

来年の課題の1つですかね~。







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香取市大根 切手神社

2018-11-09 Fri 19:27

今回もずっと気になっていた神社です。

 

切手神社

香取市大根字原口1106

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切手大神の扁額

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切手神社御修営記念碑によると御祭神は稲倉魂命

通称 切手大神

詳しい由緒は不詳

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本殿を横から


「切手」という神社名から郵便切手と何か関係のある神社と誤解する方も多いように見受けられます。

どのような経緯で切手神社になったのか非常に気になったので彼是調べたのですが、唯一手掛かりとなったのは「抹殺された古代出雲王朝」という藤原としえさんの著書のみでした。


この本によると切手神社は崇神天皇(百嶋神社考古学では天皇の称号を後世贈られた本当の天皇ではない人・贈天皇)=御間城入彦五十瓊殖命によって追い詰められた物部一族が秘密の奥儀を教えなかった為に腕を切られて殺されたことによるというのです。亡くなった物部氏の霊を弔うために造られた神社だったのでした。


同書によると「大根オオタワ伝承」というものがあるそうです。

これは代々大根氏に伝わる伝承で祖は出雲振根です。

十種トクサの神宝カンダカラを奪おうとする崇神の軍勢に追われて追われて、下総の小見川まで敗走してきました。経路は出雲→諏訪→箱根→茨城県常陸太田(古くは大根という地名だったといいます)。戦いの中、共に逃れてきた物部の軍団もいたそうですが敵対する崇神の軍勢にも藤原氏と一部の物部がいたそうです。

藤原氏は崇神から忌部と代わって国の祭祀権を与えるという密約により協力したと書かれています。なるほどねー!と思いました。実際忌部一族は祭祀権を奪われていますし「古語拾遺」を著した斎部広成の訴えや、その後の没落は周知のとおりです。そして一部の物部は振根が死んだという情報操作により惑わされたといいます。

大根一族が海からやって来た崇神軍を迎え撃ったという地に鎮座するのが長幡部神社で本当の御祭神は「八剱入彦根大根王」だそうです。調べてみると振根の後裔である神大根王の子孫に長幡部がいました。この流れを参考にするならば、長幡部神社は正しくは出雲振根系の神社ということになります。


ここまでして崇神が欲しかったものはなんだったのか。

それは振根の一族に伝わる「息呼せイブヨセ」という技術だったそうです。

この奥儀を崇神に教えなかったために多くの物部一族が腕を切り落とされたそうです。切り落とした腕と、それにより命を落とした人々を祀ったのが「大根神社」で、改名されて「切手神社」となったそうです。

また常陸太田から千葉県佐原に逃れ、小見川は最終決戦地となりました。その戦いで斬殺された物部の首塚だといわれてきた「大根塚」が元佐原市の小見川交差点付近にあったといいますが現在は撤去されてしまったそうです


崇神一派は「大根オオネ・オオタワ」という名称を消し去りたいようで、各決戦地に残った地名として残る大根名は改名されて消えました。神社名も変えられて、切手神社の正しい由緒も神社の由緒には記載されておりませんでしたから、藤原さんが書いたこの著書でしか知る事のできない裏歴史となってしまいました。

ちなみに利根川をはさんだ茨城県神栖市には「知手シッテ」という地名があります。何か関連がありそうですが、いまのところは不明です。

もしかしたらミマキイリヒコは奥儀を入手することが出来て、その地に「知手」と名付けたのかもしれません。「常陸国風土記」には潮来市の「潮来」は「伊多久イタク」と書かれていて、由来は崇神天皇の命令で東国平定にきた建借間命が国栖の夜尺斯ヤサカシと夜筑斯ヤツクシを討った際、大変痛がりながら死んだことにちなむといいます。その他にも誘き出した東夷達を「いたく(たくさん)殺した」ことから「イタク」になったとも伝わっています。

ミマキイリヒコの名は「ミマキイリヒコイニエノミコト」ですがこの「イニエ」はイ=五十=たくさんの意味で、ニエ=贄=イケニエの意味なのかなーと思っています。殺戮王ですね。


本に出てくる「大根伝承」によれば出雲振根の妹が開化天皇の皇后であり、やがて生まれた第三子が大根王(八劔入彦根大根王)であったといいます。

百嶋神社考古学で解くならば、開化天皇=高良玉垂命で皇后は神功皇后=息長帯比賣命です。そして二人の間には仁徳天皇が生まれています。

第三皇子の大根王=仁徳天皇であるかどうかは不明です。

そもそも家系図という物は、後世系図を作成した人物の願望が反映されて兎角高貴な人物に結び付けられる傾向があるためあまり信用はできません。

ですが「徳の字のつく天皇は不幸な目にあった」という通説を取るならば、仁徳が「徳」を贈られた意味がわからない現在、大根王=仁徳天皇かもしれないという余白は残しておきたいと思います。大根王の別名に「入」が入っていることも神宮皇后が朝鮮半島から渡って来た一族の後裔であったという裏付けにもなりますし、いろいろとヒントが隠されているように思います。また振根の弟に太田田根子(甘美韓日狭ウマシカラヒサ)がいる事も興味深いです。


最後に「大根塚」に関してあちこちで書物を調べたのですが、何も収穫がありませんでした。現地の図書館に行けば一つぐらい伝承が見つかったかもしれませんが・・・

ちなみに大根地区にある「頭白上人入定塚」とはまったくの別物です!


ラストは境内末社のご紹介

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不明社

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大神宮 当地だと土地柄、香取神宮?

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子安大明神 木花開耶姫か磐長姫あたりかと

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浅間大菩薩 木花開耶姫か磐長姫

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右側 ○○尊天宮石社?  

左側 ○信地○○○現宮? 

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本殿を背後から

神紋は左三つ巴


物部の皆さんが一日も早く成仏できますように。





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「娆」の次は「女盛」 下総国 一宮 香取神宮

2018-11-02 Fri 22:36

「部首が女、つくりが盛でアサメ」という字が使われているのはコチラ!


香取神宮

香取市香取1697-1

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元SMAPの香取くんは明るくて大好きなのですが、私は香取神宮とは相性が悪いみたいで行くと必ず具合が悪くなります。うちの父方の本家にある神社は鹿島神社だからなのかなぁ。

皆さんは香取神宮、変だな~と思いませんか?

本殿に行くまでにグネグネ曲がってる表参道とか、奥宮が奥にない事とか。


香取神宮の歴史やレポートなどは他でもたくさん紹介されていますしWikipediaが詳しいと思うので、そちらを見ていただくとして今回は他であまり書かれていない事を掘り下げてみたいと思います。

まずは「奥宮」のお話から。

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こちらが香取神宮の奥宮です。

普通奥宮というと本殿の後方にあるものだと思うのですが、香取神宮では本殿から見ると斜め左前方というなんとも奇妙な位置に鎮座しておられます。表参道からだと大鳥居を潜る前にあるのです、オカシイダロ!

こちらには経津主神の荒御魂が祀られているのですが、本殿が男千木なのに・・・

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女千木なんですよねー。

煌びやかな本殿に対し、あまり手入れされてない感じ。

御手水も荒れていたし・・・奥宮なのに・・・


「女千木である」ことを受けて推測するならば真の主祭神は女神ということになります。

百嶋先生は経津主命をナガスネヒコとしておられますが、これは内緒にしていただけで本当はナガスネヒコ=山幸彦=懿徳天皇の嫁である豊受姫のことなのではないかと思うのです。

なぜなら豊受姫の別名は天鈿女命です。天女命の中にある「ウズ」「太」とも書きます。蘇我馬子の妻である物部媛は布都姫とも書き、読み方は「フツヒメ」です。この「フツ」が経津主命の「フツ」ではないかと思うのです。

つまり

天鈿女命=ウズ=太=フト=布都=フツ=経津

と変化したのではないでしょうか。

拝殿にも女神様の痕跡が残っています。

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ドーン!と拝殿の・・・

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正面の彫刻に女紋の五三桐!

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そして本殿の千木は男千木。



上総国一宮・玉前神社も安房国一宮・安房神社も女神様を祀っています。

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玉前神社 御祭神は神玉依姫

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安房神社 御祭神は天比理刀咩命


県内に三つある一宮のうち二つが女神様ならば、残る一つも女神様だと思います。香取を神宮にするにあたり多氏・中臣氏・藤原氏に改竄されて御祭神は男神様という事にされてしまったのだと思います。香取エリアは神社明細帳の登録神社数も他エリアより非常に少ないです。これも改竄チームによって不都合な真実は隠されたのだと思います。


さて、主祭神は女神様だという事を踏まえて例の漢字の謎にいきましょう。

「女盛アサメ」という字は「【女盛】殿アサメドノ」に使われている漢字です。


香取志によると

○【女盛】殿アサメドノ  舊記に曰。『磐裂神・根裂神祭所也。本宮ノ仮殿時爲至。』承元官符之同。末社記に曰。『假殿也。遷宮之時。神輿於此所移』云々。


経津主の祖父母にあたる磐裂神・根裂神を祀っている社であり、本殿が遷宮していた時代には仮殿となっていたようです。この仮殿の造営は摂社である神崎神社・大戸神社が任されていたようです。


また「アサメ」という言葉の意味について香取志には

但古事記に阿佐米余玖アサメヨクの語あり。是即チ朝目能アサメヨクの意にして 朝に能事ヨキコトを見るを云ふ。江家次第記大嘗祭ノ條に『天皇廻立殿カヘリタチノトノニ還玉ヒ。采女進テ申テ曰。阿佐女主水モヒトリ 夕暁乃御膳平ミケカ爾供奉都止申ス。』云々。是等の事を参考すれば。今ノ御炊殿ミカシキトノ之に近し。

と説明されているのですが、またまたコジツケ感が。

そこで前回の姥神社同様、これも中国語にあるかもと思い調べてみたらありました!

【女盛】 チェン、シェン


この異体字がこちら


娍 セイ、ジョウ

  すらりとしてみめよい


「すらりとしてみめよい」・・・

どうしてもセクハラ臭を感じてしまうのですが。

姥神社もそうですが、名付けたのは男性だと思いますので、わざわざ女片の字をチョイスするという事はやはり女性的な意味で何かあったからではないかと感じるのです。しかも身体的な特徴を指している字を用いているということは非常に性的な視点で見ていることになります。

聖域でありながら性的事件は過去にも起こっています。

伊勢斎宮の皇女レイプ事件は権力を狙っている皇子達が霊力を得るためにオトメである斎宮(皇女)を襲った事件です。聖徳太子の嫁・菟道貝蛸皇女は伊勢斎宮で池辺皇子にレイプされて解任された菟道皇女ではないかといわれております。

また大嘗祭で天皇が行う「真床襲衾の秘儀」についての噂もしかり。

香取神宮でも遷宮時にそのような性的儀式があったのではないか・・・


考えすぎ、と思われるかもしれませんが私がこんな風に妄想してしまう理由にコチラの神社の存在があります。


一夜山神社 側高神社末社

香取市大倉字一夜山(現在は側高神社に合祀)


香取志にはこのように書かれています。

木花開耶姫命なり。大山祇神之少女ムスメなり。神代記に『皇孫因而幸之。即一夜而有娠(ヒトヨニシテハラメリ)。』故に是を號く。


なぜこの内容がこの神社に、しかもこのネーミングで?と不可解でなりません。最初は秀吉の一夜山城みたいな事かと思いました。この内容ではまるで雄略天皇です。側高神社自体も謎が深いのに、そこの末社がというのもなんとも因縁めいています。しかも御祭神が開耶姫です。木花開耶姫=豊受姫です。無関係とは思えません。


また木花開耶姫には気になる伝承があります。

千葉市稲毛区に鎮座する浅間神社の御祭神に木花開耶姫がおられるのですが、この神社には「当神社の神はコハダに乗ってやってきて当地を開拓したという言い伝えがあり、住民はコハダを食べない風習があった。」という食物禁忌伝承が残っています。


浅間神社

千葉市稲毛区稲毛1-15-10 


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コハダ~?と疑問に思って調べましたら、コハダは古くはツナシといい、出世魚で大きくなるとコノシロと呼ぶそうです。コノシロを安産祈願で土中に埋めることから幼子の代役という意味で「児の代コノシロ」、また娘の代役で「娘の代コノシロ」と呼ばれるようになったといいます。

元になった伝承がこちらです。

むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。
そしてこんな伝承も!!
 富士山の山頂には「このしろ池」と呼ばれる夏でも涸れない池があり、山頂にある富士山本宮浅間大社奥社の祭神木花咲耶姫の眷属である「このしろ」という魚が棲んでいるとされ、風神からの求婚を断るために女神がやはりコノシロを焼いて欺いたという同様の話が伝わっている。
風神からの求婚を断るために死んだフリですよ!!
風神といえば級津彦です!級津彦=天兒屋根です!鹿島神宮の武甕槌命ですね。木花開耶姫=豊受姫に死んだふりされてしまうほど、コヤネは嫌われてしまったんですね・・・一体何があったんだろう・・・
鹿島神宮=コヤネ  香取神宮=豊受姫
と考えると、出雲大社同様に「祟り神」扱いとなっている武甕槌=コヤネを抑えられるのは、コヤネが恋焦がれた女性である豊受姫ということなのでしょう。
香取神宮には恐ろしい神事もありますし(それはまた別の機会に)なーんかジメッと暗い印象があります。
鹿島神宮や息栖神社のようなスカッした清々しさがないというか・・・
まだまだ秘密があるんだろうなぁ~と考えずにはいられません。


以下、境内社など。


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神饌殿、ここが元の【女盛】殿?


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拝殿にて、あまり見かけない二つ巴紋


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フルール・ド・リス!やはり女神様!

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何気に松と鳳凰?


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匝瑳ソウサ神社 磐筒男神・磐筒女神

経津主命の父母神といわれている

経津主命=豊受姫ならば

磐筒男神(須佐之男)磐筒女神(神大市姫)

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本殿背後の櫻大刀自神社 木花開耶姫命

通常の奥宮の位置です、偶然?


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六所神社 須佐之男命・大国主命・岐神・雷神二座

花園神社 龗神

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鹿島新宮 武甕槌神


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楼門の随身 左が中臣鎌足 右が武内宿禰

何度撮り直しても鎌足の顔が映らなかった

私には顔を見せたくないそうです

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諏訪神社 建御名方神

市神社  事代主神

天降アマクダリ神社 伊伎志爾保神 鑰守神

通常の天降アブリ神社なら日本武尊などが御祭神なんですが・・・

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馬場殿神社 建速須佐之男命

押手神社  宇迦之御魂神

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境内の末社に向かう途中にあった御手水。

鹿角紋を見ると頭に浮かぶのは物部一族か本多忠勝。





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市原市門前字人市場 姥神社

2018-10-28 Sun 19:20

今回ご紹介する神社は、ここ数年謎であった神社です。


姥神社

市原市門前1-123付近


住宅街の中の道路に囲まれた三角地帯に鎮座されてました。

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こんもり茂った謎の三角地帯に・・・

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おおおっあったー!


この姥神社が本当に本当に謎だったんです。

何度グーグルマップを探しながら彷徨ったことか・・・!(涙)

市原郡誌などだと、ちゃんとした神社として記載があるのです。

しかし探しても探してもお社らしきものは発見できず、付近の神社にも合祀された形跡が無く行方不明でした。

今回蘇我氏調査で現地に行く為にグーグルマップで小さな社がありそうな怪しい場所(だんだんわかってくるのですよフフフ)にアタリをつけていたら、やっとそれっぽい石碑を見つけたので発見できました。


こちらは往時は門前字人市場に鎮座していました。

「人市場」ってちょっと強烈なネーミングですよね。

しかも神社の紹介文がこちら


昔、人市場であった所に建つ。人市の由来は子供が夭折しないよう当神社に参拝し、この村の人に子供を売ったことにすると不思議と子供はよく育つという。元旦は参拝者で境内はごった返したという。


え・・・?

どういうこと・・・???

ん~、神社名で考えるなら姥神社なので御祭神は豊玉姫の子・ウガヤフキアエズの乳母を任された玉依姫ですとか、とにかく女神様だと思います。それなら子育ての神様として祀られていたことは納得できるのですが「売ったことにする」という経緯がどこを探しても出てこない!

しかも明治までは村社であったのに現在元鎮座地であった字人市場の土地は門前公園というかなり広い公園に姿を変えているのです。

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野球場とか作れただろうぐらい広い敷地


明治期に一地区に神社は一つという命が下っているのですが、その場合代表として残した神社に合祀するのが普通の流れなんです。

でも近隣の神社を調査しても姥神社は見つからなかったんです。


そこで最近調査していて思いついたのが「市原領主・蘇我稲目」の存在です。当神社と前に記事でご紹介した光善寺はそう遠くない位置関係にあります。


過去記事「飯香岡八幡宮と柳楯神事と蘇我氏の残影」


もしかしたら姥神社も蘇我氏に関係がある神社だったんじゃないかなー、と。

そして蘇我氏に関係する発見されたら非常にヤバイ古文書とか所縁の品とかがあり、神社庁も焦って管理していた宮司に命令して神社を遷宮して石碑に変え、元鎮座地は更地にしてしまったんではないかなーと。

そもそも「人市場」ですから往古本当に人身売買があったんじゃないでしょうか。

これはまったくの仮説ですが・・・例えば東夷を奴隷として都に売ったりしていて、領主となった稲目が人身売買を禁止した経緯があって、それで夷に感謝され良好な共存関係が築かれていたわけですよ。しかし時が流れて蘇我氏が討たれて東夷も住居地を移動させられたり迫害されたりと酷い目にあい、怒りがピークに達して何度も反乱を起こすようになり東国争乱です。

そんなこんなで落ち着いた頃、人々は蘇我氏が治めてくれていた頃は平和だったよねーと思いだし、誰かが蘇我氏を慰めるために石碑かなんかを祀ったのかも。そしてたまたま参拝した子供がすくすく育つとか病気が治るとかという事があったので評判になり、昔人市場だったという話と混ざって子供を売ったことにすると健康に育つよ~という伝承になった気がする。


現在は御祭神が八衢比古神・八衢比売神・久那斗神として伝わっています。

これも不思議なのですが、おそらく姥神社の御祭神は早い段階で不明になってしまっていて、境内社に道祖神があり、そちらの御祭神は判明していて、何かの時にその御祭神が本殿の御祭神だと間違って伝わったのではないかと思います。


ところで現地調査にいったら、また謎が増えたんです。

石碑の文字をご覧ください。


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この字でウバ神社なのです。

日本の漢字にはないんです、WEBで調べたら中国語で似ている漢字がありました。


 rǎo わずらわしい

 

で、異体字がこちら。

 

 デウ、ネウ、ゼウ、ダウ、エウ、ケウ

  わずら-わしい、なや-む


え、ということは本当はデウ神社・・・?

御祭神は女片の字を使っているので女神様だと思います。

蘇我氏の女性を奉斎していたのでしょうか。

もしかしたらお子さんがいるお母さんだったのかもしれません。

でも意味が「わずらわしい」って・・・

・・・本当は違う字であったのに悪い字に変えられてしまったのかも。

神名でもありますよね、驚くような字が使われていることが。

例えば伊邪那美命の名も「邪」というあまり良い意味でつかわれない字が入っていたりしますし。このディスり方は絶対藤原氏絡みだと思います。


さて、まさか中国語の神社名があるとは考えてもみませんでしたが、国際交流の盛んであった古代飛鳥時代の片鱗を覗かせてもらえた感じがしました。

もしかしてコレも神社が廃された理由の一つでしょうか。


次回はもう一つ、中国語の字が使われている神社をご紹介します。





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房総の聖徳太子と蘇我氏の残香

2018-10-21 Sun 22:40

今回は聖徳太子について迫りたいと思います。


子供の頃にコミックス「日出処の天子」を読んで以来、現在に至るまで聖徳太子時代の謎を追いかけてきました。

彼だけでなく家族や蘇我氏など、関係者達も謎に包まれている飛鳥時代。

その後に続く天智・天武も本当に謎だらけです。

謎にしてしまった元凶は多氏・中臣氏・藤原氏の阿蘇軍団かな~と思ってます。

乙巳の変が起こり日本の真実の古代史は隠されてしまいました。

ですが現代の歴史愛好家の方や研究者の方の御尽力で、WEBにこれまで調査できなかった限定地域の伝承・寺社の縁起などの情報が掲載されるようになり、次第に真実の古代日本の姿が明らかになってきていると感じています。

私も郷土を愛する者として千葉県内の聖徳太子所縁の寺院をご紹介します。


①鹿野山琳聖院神野寺ジンヤジ

 君津市鹿野山324-1

真言宗智山派、推古天皇6年(598)聖徳太子の創建といい、堂宇建立のとき多くの鹿が集まって工事を助けたので現山号になったという。慈覚大師円仁、親鸞が入山したと伝える。また別説では日本武尊が鬼を退治に山中を進撃していた際、迷ってしまったところを鹿がやってきて案内してくれたことから、鹿に感謝して鹿野山と呼ぶようになったとも。また神野寺は尊が鬼との戦いに苦戦していると、山頂に諸神が現れて尊の軍勢を守護したという故事にちなんで命名されたという。御本尊は伝聖徳大師作の軍荼利明王と薬師如来。軍荼利明王は阿久留王の垂迹として毎月法要が営まれている。また阿佐太子も神野寺に7年間滞在し推古8年(600)に当地で没したといい、山中に阿佐太子の塚が残るという(現在は所在不明)。


②如意山惣物院久原寺クバラジ

 君津市西猪原字久原243

真言宗智山派、関東八十八カ所霊場52番、新上総三十三カ所霊場11番、上総七福神(毘沙門天)。御本尊は正観世音(阿弥陀如来)。寺紋は桔梗。聖徳太子の創建。


③妙覚山岩冨寺

 富津市亀沢字岩冨山135

真言宗智山派、上総国薬師如来霊場第5番、新上総国三十三観音第18番。寺紋は桔梗。御本尊は千手観世音。推古天皇20年(612)に当国鎮護の為に聖徳太子が自ら十体の観音像を彫り岩窟に安置した。それを斉明6年(660)堂を建立、天平16年(744)行基が伽藍を造営、貞観9年(867)円仁が伽藍を再建、長禄2年(1456)将軍足利義政が修復。天文13年(1544)賊により放火され焼失。仏像は無事であったため同21年(1552)に本堂再建し安置。元禄16年(1703)に法印秀快が講堂再建。境内に千体地蔵堂(御本尊:千手観世音と千体地蔵菩薩)、音無観音堂(御本尊:正観世音菩薩)がある。


④聖徳山宝珠院太子堂寺

 市原市真ヶ谷字天神畑21-2

箱根で行基が太子の霊に感応、「自分の仏像を作れば国を守護する」との言葉を受けて彫った聖徳太子像を源平争乱の際、僧・源海が戦禍を畏れて当地に安置した。現在仏像は盗まれて立派な厨子だけが残るという。また理由は不明だが当寺に葦毛・月毛の馬で来た者は栄えるという伝承がある。


⑤薬王山龍昌寺

 市原市飯沼字下口888

曹洞宗。御本尊は薬師如来。天正10年(1582)開山。太子堂の御本尊は聖徳太子で慶長19年(1614)安置。太子手彫りの救世観音がある。伝承によると御本尊は聖徳太子が彫った三体仏のうちの一つで救世観音像。太子が人々を救うために難波の海に沈めたところ養老川の河口に漂着した。その500年後の天仁元年(1108)龍昌禅師が春日明神の夢告げで発見した。当地には太子に纏わる地名が伝わっている。一つは往古黒駒に乗った太子が当地に馬で立っていた場所ということから「飆馬台ヒョウマダイ」という地名。もう一つの「森山」という地名は守屋が魔をなさんと霞の中に姿を現さず、霞の中に消えると晴れたことから、守屋魔で森山となったという。別名で日翳原・霞原とも呼ばれた。(現在両字名は残っていないが、もしかしたら小字ではなく小名なのかもしれない)


⑥瑠璃光山浄土院安養寺

 いすみ市深谷字越畑台1693

天台宗、火伏で有名。御本尊の薬師瑠璃光如来は聖徳太子の作と伝わる。


⑦仏母山利宮院御摩耶坊金剛吉祥寺

 酒々井町本佐倉字根古谷969-1

真言宗智山派。御本尊の摩耶夫人像は聖徳太子が生育の恩に報いるために彫ったという秘仏で「見たら目がつぶれる」と伝えられている。大同2年(807)弘法大師が国家鎮護の為当地に安置。境内に薬師堂(御本尊:薬師瑠璃光如来)、観音堂(御本尊:観世音菩薩)、阿弥陀堂(御本尊:阿弥陀如来)、大師堂(御本尊:弘法大師)がある。


⑧慈眼山證誠院

 松戸市松戸新田604-2

真言宗智山派。太子作の延命地蔵菩薩がある。この仏像は元は駿河国竹ノ下村宝鏡寺にあったが、元文元年第8世・大忍が武藏國に来錫した時に江戸市民を救うために證誠院を創建し移転。近代になり大隅新太郎が頽廃していた同寺を昭和13年(1938)私有地を寄贈し同寺を移転再建。境内に白龍大権現などが祀られている。


⑨海上山妙福寺

 銚子市妙見町1465

元は匝瑳市入山崎にあり槃若寺といった(その当時は真言宗)。正和3年(1314)日蓮宗に改宗、正徳5年(1715)に銚子に移動した。般若寺時代からの聖徳太子作の北辰妙見大菩薩像があり、この仏像は祭祀の起源であるという。この菩薩像は元は源満仲の私仏で代々源家に伝えられてきたもので、後に頼朝や豊臣秀吉も尊崇。加藤清正が三韓征伐出発の際、 清正に授けられ帰国後は大阪城中に奉祀。江戸時代になり江戸城中から多古城主・松平家に伝わり、正徳5年平山久甫など幕府及び松平家などが発起人となり当寺に祀られた。



太子堂があるor太子像がある、というだけの寺院は省きましたが、まだまだ拾い切れていないお寺さんがあると思います。他県の状況は調べておりませんが、太子創建の寺院や太子手彫りの仏像がこんなにあるのは普通のことなのでしょうか?

銚子の妙福寺の妙見大菩薩像は往古から千葉に伝わっていたものではありませんが、妙見信仰が広まる切欠となった仏が千葉県にあるということに因縁を感じてしまいます。都からだいぶ離れている東夷の地に所縁の寺院がこれだけあることは、やはり地縁があったからでは?と思うのです。


鹿野山神野寺については院号が「琳聖院」です。

聖徳太子絡みの伝承に百済聖明王の第三皇子・琳聖太子が聖徳太子に謁見したというものが伝わっています。琳聖太子は正史に名の残っていない方なので、いまのところ伝承の域を越えない存在となっています。

しかしこのように寺院の院号に使われていたりする事を考えると、実在した人物だよね~と思えてくるのです。しかし琳聖太子が当地に来たという伝承はありません。ならば阿佐太子=琳聖太子ということなのでしょうか。


金剛吉祥寺の摩耶夫人像に関しては見たら目が潰れるそうですが、よく製鉄関連地だと製鉄民が職業病で片目を悪くしていたことから片目に関する事や目が潰れる、逆に目がよくなるという伝承が残されます。

ですが、この寺の場合は見られたらまずいという意味じゃないかと感じました。

なぜなら摩耶夫人信仰とは釈迦の実母の摩耶夫人が釈迦を産んで七日後に亡くなってしまったことにちなみ、女性が出産子育て婦人病の願掛けをする以外に、男性も幼い時に母を亡くした人が母恋いの想いから信仰することが多いそうなのです。

正史だと太子の母・穴穂部間人皇女は太子が亡くなったのと同じ月に亡くなってます。もしかしたら仏像に太子の本当の母の命日が刻まれていたるするのではないでしょうか。または仏像を彫り上げた日付が太子が亡くなったとされる月日よりも後であったりとか。公になると「じゃあ聖徳太子は誰なんだよ」という事になってしまうから秘仏なんじゃないかなと。


中世の太子信仰が県内でどのぐらい浸透していたのかわかりませんが、神社を巡っていると弘法大師を祀る大師堂とは別に、時折聖徳太子堂や石宮を見かけます。聖徳太子=蘇我入鹿ならば市原領主家であった蘇我稲目一族の後裔ですから、市原市との地縁は深かったはずです。薬王山龍昌寺に伝わる聖徳太子にちなむ地名伝説は現在の字名に発見できないのでのたうち回るしかないのですが、継続して調査しようと思います。


また龍角寺古墳群で有名な印旛郡栄町にある岩屋古墳は推古天皇陵にも匹敵する方墳で築造の年代的に当時の中央の有力者であった蘇我氏との結びつきが強かったのではないかと考えられています。

岩屋古墳の石室は早くから発かれていたと伝わっています。

馬子の墓といわれている石舞台古墳も表土を剥ぎ取られた形で石室が晒されていますが、墓を発くということは埋葬されている一族の祖先を蔑ろにする行為であり、その一族の繁栄を阻む意図があっての行為でもあったようです。

そのように解釈するならば、岩屋古墳も蘇我一族に関連する人物の墓であった可能性があるのです。


最後に印西市鹿黒の地名伝承をご紹介します。

「角川地名大辞典12千葉県」によると

かぐろ 鹿黒〈印西町〉

地名の由来に関し、蘇我入鹿が殺された時その縁者が入鹿の首を携えて来て葬り、ここに住居したことによるとする説がある(印旛郡誌)

とあります。

持ってきた入鹿の首が時間経過で黒く変色していたのかな~(汗)と妄想を掻き立てられる一文で、この鹿黒の地名伝承を知って絶対千葉県と蘇我氏は関係あったはずだっ!と確信したのです。

なぜなら敵から逃走を図る場合、縁も所縁もない土地に逃げないと思うからです。縁者と入鹿がどのような関係であったかは不明ですが、一族の者であっても従者であったとしても、下総の印西市周辺が蘇我氏の領地であったという可能性は非常に高いのです。先に書いた岩屋古墳も印旛沼の対岸になります。この周辺には蘇我氏と同族であった物部氏所縁の神社・鳥見神社が集中して鎮座してもいます。

混沌としたフサ国の古代ですが、調査は楽しいのでまだまだがんばります♪






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「フサ国」=「扶桑フーサン国」!!

2018-10-04 Thu 21:30

まずは、こちらの石碑をご覧ください。


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これは千葉市中央区稲荷町に鎮座する稲荷神社境内にある石碑です。

この「扶桑教會」の「扶桑」という言葉なのですが、県内の石碑に時々見られます。

扶桑をWikipediaで調べると


扶桑(ふそう、フーサン、英: Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。


とあります。

そう、中国語での発音はフーサンなのです!

今回は「総フサの語源は扶桑フーサンなのではないか、もしかして扶桑国は房総にあったんじゃないか」という疑念をコツコツと調査してきた成果をご報告したいと思います。


扶桑国については中国の書物である「山海経」「淮南子」「史記正義」「宋書」などに記述がみられ、中でも「梁書」に詳しい記載があります。

以下「梁書」より。


扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略) 永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。 「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。 南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。 国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。 牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。 結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。 親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。 かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」 また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))



ウィキと「梁書」の文章中、私がムムムッと思った点を幾つか解説していきたいと思います。


その1 巨樹伝説

千葉県にも巨樹伝説があります。「下総」の地名由来伝承に「総とは木の枝を指し、ある時この国に生えている大楠を占うと〈この巨木は大凶事のもと〉と出たので木を伐り倒した。倒れた大楠の上の枝側を上総、下の枝側を下総とした」というものがある。

旭市の椿海地区には猿田彦が国境に植えたという椿の大木の伝説があり、その大木が倒れて抜けた後に水が溜まったのが椿海になったという。ここでもやはり大木が倒れた上の方を上総、下の方を下総としている。


その2 扶桑の木の葉は桐に似ている

天皇家の紋でもある「菊紋」と「桐紋」。この二つの紋は寺社でよく見かけます。

この桐と似ているという点がとても気になります。

菊紋はシュメール由来だといわれていますが、桐紋については何処発生なのか考えたことがありませんでした。もしかしたら扶桑国発祥の紋で「桐」ではなく「扶桑」であったのではないか?そうなると扶桑国王は正統王朝系の人物であったと考えられます。

植物:扶桑と桐を見比べたいところですが残念な事に扶桑は失われており、どのような形状であったのかは文字でしか伝わっていません。


その3 武力がない

一国でありながら軍事力がないということはすごい事です。「争わない」というスタンスは九州王朝を彷彿とさせます。


その4 国王の名は乙祁

この王の名に関して乙祁=イツキと読むとする説をHP「蒲生新田の庭先考察」様が唱えていらっしゃいます。

その説を受け入れると、乙祁=イツキ=齋=イワイで香取神宮の斎主/伊波比主命に比定できるのです。

フサ=扶桑国由来で、国王:乙祁=イワイヌシであるとすれば、下総国一宮香取神宮に祀られている事実から推測して、下総国に扶桑国があったと考えられます。


その5 扶桑国人は鹿を飼う

千葉県の寺社に馴染みの深い「鹿」。香取神宮と茨城県に鎮座する鹿島神宮では神使として鹿を飼育しています。

猟師が間違えて殺してしまった神使の鹿を祀る香取市の落文神社や聖徳太子が寺を建てようとした時に鹿が手伝ったという縁起を持つ君津市の神野寺など、鹿に纏わる伝承が数多く残ります。

また鹿をトーテムとする氏族と言えば物部氏です。

印旛沼周辺には物部氏の祖神:ニギハヤヒを祀る神社である鳥見神社があり、古代においては現匝瑳市や四街道市辺りは物部氏の領地でした。


その6 仏教が伝わっていた

千葉県の寺院の縁起に多いのが、〇〇で発見された仏像を祀ったというパターンです。海中や土中、井戸の中、山の洞窟の中など、様々な場所から仏像が発見されています。

放棄された仏像が仏教が広まっていた扶桑国人のものであるとすれば、他の宗教を信奉する勢力との間に戦争があった痕跡ではないでしょうか。



以上、着目した点を書き連ねてみましたが、何しろ千葉県の古代はまったく解明されていないので、この推測がどの程度真実に迫っているのか測りかねます。

ですが499年に扶桑国の僧:慧深が中国へ渡ったという史実は貴重な証拠です。

大和国の天皇が武烈天皇(←実在したかはおいといて)だった頃、東国にこれだけの文化を持つ国があったのです。

そして扶桑フーサン国が房総にあったのだとしたら、妙だとしか思えない上総から安房の分離(しかも一度上総に戻り再び分離)、数多く発見されて祀られた仏像達の謎、後年度々起きる蝦夷の反乱も、扶桑国が別の勢力に乗っ取られたと考える事でキレイに一連の流れになってしまうのです。


バラバラだったピースが次第に埋まってきている気がします。








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飯香岡八幡宮・柳楯神事と蘇我氏の残影

2018-09-09 Sun 01:07

鉄は熱い内に打て!ということで、本日取材に行った寺社をご報告!

どうぞ↓こちらをご覧ください。


光善寺薬師堂

市原市門前195-9付近

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こちらの薬師堂の御縁起ですが・・・

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光善寺薬師堂縁起

言い伝えでは薬師堂は元禄十三年庚辰年(西暦1700年)迄に九百七十年を経た古い建物です。

また、本尊の薬師如来は聖武天皇治世の神亀元年申子(西暦724年)秋九月十二日に行基菩薩が一夜で造仏したと伝えられております。

当地建立の縁起では光善寺は市原領主曽我稲目末葉で上総之介光重の一子曽我上総太郎光善で、その名を寺号としたと伝えられております。


市原領主・曽我稲目!?


曽我じゃなくて蘇我にすれば、皆さんわかりますよね?

そう、蘇我馬子の父、蘇我稲目のことだと思います!

ということは、往古この付近は蘇我氏の領地であったということですよっ!!!

千葉市中央区に「蘇我」という地名があることも「蘇我比咩神社」があることも、すべて繋がるんですよっ!!!ヽ(≧∀≦)ノ


地図上で確認すると光善寺薬師堂と蘇我比咩神社の位置はかなり離れています。

しかし私は蘇我比咩神社の元々の鎮座地は現在地ではないと考えているので、元宮地は市原にあったという可能性もあります。

注意すべき点として房総に残る中臣鎌足伝説は木更津市内にあるので、同じ内房の海沿いにある事を考えても、藤原一族がいろいろ手を加えた可能性は否めません。


さて、今回の発見と共に光善寺にも関わる神事をご紹介します。

前回の記事で書いた飯香岡八幡宮の特殊神事に「柳楯神事」というものがあります。

神事の流れは市原地区の「司家」と呼ばれる2家が祭礼の為に柳で楯を作る神事で、光善寺跡で出振舞を受けて出発し市原八幡宮にて参拝、阿須波神社にて旅の無事を祈願し古代道を進み五所地区へ入り、五所の御三家と呼ばれる氏子の持成しを受け一泊し飯香岡八幡宮に迎えられるという行程となっています。

神事の由来は二つあります。

その1

文治2年(1186)年に書かれたという市原市市原の光善寺に伝わる「薬師如来縁起」によると市原領主の系譜を引く曽我太郎光善が病に苦しんでいたところ、峯の薬師のお告げにより高僧行基が市原に下向し薬師仏を彫られたおかげで無事平癒。その後、行基が当地に御堂を建立し説法していると、瑞石の上に「戴冠の異人」が現れた。その正体は八幡神であったため麦飯と柳の箸でもてなし、以来、八幡宮の祭礼に柳の楯を奉ずるようになったという。

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この石に八幡神が・・・!

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その2

大永3年(1523)に五所の中嶋三郎治によって記されたとされる「八幡宮伝記」によると五所御三家(中村家・浅野家・中嶋家)の先祖が白鳳2年3月花見をしながら都の古社への参拝、更に筑紫へと足を伸ばそうという話で盛り上がり、旅の神である阿須波神社に詣で道中の安全を祈り旅に出発。筑前の筥崎八幡宮に参拝した夜、夢の中に八幡大神が出現し神前に捧げられていた神璽と楯を授けられ、はやくこの地を立ち去るよう告げた。神夢だと感じた3人は柳で作った楯を筏にし、神に授けられた神璽と神宝を乗せ袖ヶ浦の手長の浜に流れ着くようにと願いながら海に流した。そして急ぎ上総国に帰り、再び阿須波神社にお礼参りをして海へと急ぐと、蒼野が原の芦が繁茂する入り江に光り輝く物が見えたので、近寄り確かめると筑前で海に流した神璽と神宝であったという。この神璽と神宝を祀った神社が飯香岡八幡宮である。また、柳楯は筑前の国から迎えた神の乗り物(筏)であるという。

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市原八幡宮 市原市市原字辻1

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御祭神 八幡大神

神紋 左三つ巴

「戴冠の異人」と称される方だと思います。

戴冠ということは天皇だと思うのですが應神天皇ではない方だと。

異人ということは渡来人ということを指しているのでしょうか?

百嶋神社考古学だと八幡大神=大幡主ですが、

こちらの神社ではどなたが祀られてるんでしょうね。

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境内社 後ろの石宮は牛頭天王(スサノオ)、前は不明

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境内社 こちらも不明の石宮

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二重の虹が出た!

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阿須波神社 市原市市原字阿須波74

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御祭神 阿須波神(建南方命)

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金毘羅大権現(大山咋命)


伝承では柳楯は九州から迎えた神の乗り物(筏)であるとされているようですが、これは百嶋先生の資料にあったバンブーボートを指しているのではないかと思います。

この神事を単純に房州人が筑前から神を盗んできたという窃盗事件だとは解釈しないでくださいね(汗)

おそらく九州の筥崎宮を奉斎していた一族が御祭神を奪われるような危機に直面したんだと思います。領地を奪われたのかもしれません。それで昔房総に移住した同族を頼って神璽を携えて逃げてきたのかもしれませんし、同族に神宝を託したのかもしれません。

また市原領主であった天皇家に繋がる一族である蘇我氏に庇護を求めた可能性もあります。もしかしたら八幡大神である「戴冠の異人」は蘇我氏の誰かを指しているのかもしれません。


柳楯神事は失われた九州王朝の流れを汲む、蘇我氏から発祥したのでしょうか?

阿須波神社に伝わる万葉集の歌は「庭中」にある社を詠んだ歌ですが、一体誰が住む屋敷の庭中だったのでしょうか?

「戴冠の異人」と称された八幡大神の正体はどなたなのでしょうか?



謎がより深まった週末でした。





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市原市八幡 飯香岡八幡宮

2018-08-29 Wed 23:11

また間が空いてしまいましたー(反省)

なんか最近一つの神社の事を掘り下げていくと、いろいろ気付く事がありすぎまして。そういえばアノ神社もこんなのあったなとか、コッチの神社と摂社関係にあるとか拾っていくと、いつまでも調査が終わらず記事にするのが遅くなりすぎてしまうという悪循環に陥っています。

ちょっと来月からリアルが忙しくなりそうなので折角ブログなのだからリンクすればいいんだよなと思い、なるべく記事にしていこうと思います。


さて、今回は地名の由来になっているというコチラの神社です。

 

飯香岡八幡宮

市原市八幡1057-1

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境内の御由緒から

国府総社 飯香岡八幡宮御由緒

御祭神 誉田別命

    息長帯姫命

    玉依姫命

    ほか配祀七柱

由緒沿革

神社縁起によると、この地は御影山と称し六所御影神社が鎮座していたが、白鳳三年(675)天武天皇の勅命により八幡宮として創建されたという。また、天平宝字三年(795)には国府総社とされ、一国一社の八幡宮として、また上総国の総社として広く信仰を集めてゆくこととなった。保元三年(1158)の石清水八幡宮の諸国荘園官符にみえる「上総国市原別宮」は本宮であるといわれている。

源氏・千葉氏・北条氏・足利氏・徳川氏を始め近隣に所領を持つ大名・旗本など武将の崇敬が厚く、徳川家康から社領百五十石を安堵され、格式十万石の待遇を受けた。明治維新以降は県社に列格された。

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本殿に近づけない&見えない造り(つД`)ノ

普通の八幡様の感覚で訪れたので拝殿の大きさに驚きました。

本殿も含めて上総国一宮の玉前神社と同じぐらいの規模に感じました。

(玉前神社の記事はこちら 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社

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神紋は提灯を見ると菊と五七桐なのですが・・・

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拝殿には菊と五三桐

そしてその上には「フルール・ド・リス」が!

「フルール・ド・リス」についてはブログ「常陸国ふしぎ探検隊」の河野さんがこの紋章が使われている社の神様は女神であるとおっしゃってます。

(ブログ「常陸国ふしぎ探検隊」108.境神社探検記)


そして五三桐紋は百嶋先生曰く女神の紋なのです。

河野さんと百嶋先生、お二人の見解からして当八幡宮の主神は女神ということになるのです。

しかも規模から考えても相当位の高い女神様が祀られていたはずなのです。

ですが現在は譽田別命・・・(゚д゚)

当八幡宮は後から権力者によって主神の入替えがあったようです。


何言いだしてるんだこの人、そんな事あるわけないでしょって思いますよね。

まあ暫くお付き合いください。


まず一つ目は飯香岡八幡宮の成り立ちです。

元々は「六所御影神社」が鎮座していたと由緒にありましたよね。

現在の八幡宮を拝殿と見立てると、八幡宮の鎮座地から見て丁度真後ろになる、いわゆる「本殿」の位置に鎮座しているのです。

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こちらが噂の六所御影神社

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神紋は十六花弁菊


この神社鎮座地の地名は古くは「御影」と「石握(伊静とも)」という二つの地区から成り立っていたといい、飯香岡八幡宮では「元宮」と呼んでいるそうです。

御祭神は当初は大日孁貴尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱で、何時かは不明ですが瓊々杵尊・布留大神・大宮女大神・天照皇大神の4柱も加わったそうです。大日孁貴尊と天照皇大神は同神なので1柱とすると、この6柱の神を祀る神社ということで「六所」と言われるようになったんですかね。

人間関係で説明すると大日孁貴尊(=天照皇大神)はヒミコです。

伊弉諾と伊弉冉は夫婦。瓊々杵尊は大宮女大神(=天鈿女=コノハナサクヤヒメ=神吾田津姫)と夫婦です。

問題は布留大神です。

物部系の神名ですが、どなたの異名なのかは不明。他の御祭神から検討をつけるならば、この面子で足りないのは大己貴=ナガスネヒコ=懿徳かなぁと思います。

布留大神が当地に奉斎されている事実は、富津の地名由来に出てくる「フツ」という名称が物部氏関連であると考えていい要素の一つになると思います。また当地の古代地名「石握」についても、石が付く地名はほぼ物部に関係すると考えているので、なかなか彼らの痕跡が出てこない中で今後の新たな発見が期待できます。

他にも古地名である「御影」からは御影=天御影命=天兒屋根命=春日神社で藤原氏の影響も考えてしまいます。内房には鎌足伝説もありますしね。

今の当地の地名「八幡」は「ヤワタ」と読みます。

ハチマンではなくヤワタなのです。

「大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれる。」と百嶋先生が説明している大幡主こそ大本の八幡神ですから、本来は「ハチマン」ではなく「ヤワタ」という読み方が正しいのです。

当地が大幡主系一族の領地であった痕跡ですかね。


おっと!忘れてはいけないのが当地の日本武尊伝承です。

タケルが東征の際、六所御影神社で休憩したそうです。

その時に社人がタケルに食事を捧げたところ飯の香りを賞したといい、それから「御影山」を「飯香岡」と呼ぶようになったそうです。

またしても「飯」伝説!!!

飯伝説といえば忌部です!

しかしタケルが当地に来た時代はまだ八幡周辺は海底だったはずなのですよ。

Flood Maps(潮位+9m)で見てみましょう。

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地図の赤い丸が八幡宮の場所です。

完全に海の中ですね。

ということは六所御影神社も海の底です。

ではタケルが来た時に飯を捧げた社人とはどこの社人だったのか。

ココしかないでしょう!!

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前にも記事にてご紹介させていただきました菊間の若宮八幡神社です!


過去記事 市原市菊間 若宮八幡神社①

     市原市菊間 若宮八幡神社②


Flood Maps(潮位+9m)だと下の地図の赤丸です。

台地の上ですね、という事は古代はここが「御影山」であり「飯香岡」であったのではないでしょうか。

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実は前に取材した時にあれっと思うことがあったんですよ。

それがこの写真。

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この写真、実は若宮八幡神社の拝殿なのです。

当時はまったく疑問に思わなかったのですが、いまは違います!(ちょっと成長しました!)

おそらく主祭神が女神から男神に変わった時に、拝殿に彫刻された五三桐紋部分に違う紋の金属製カバーをしたんですね。

本来の神紋が五三桐であったならば私が取材に行った時に、すんごく親切な地元の氏子さんがとても詳細に若宮八幡内を案内してくださったのです。その時に鳥居の側に鎮座している天照大神の石宮に最初にお参りするというシキタリを教えてくださった事が重要な意味を帯びてきます。

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天照皇大神宮(天照大神)


しかもこの社が当神社に合祀された理由が「有縁由て他所より移し祀る」なのですから、ものすごくアヤシイ。


おそらく菊間にあった「御影山」には元々天照大神(=大日孁貴命)が奉斎されていてタケルが来訪した事からタケルを配祀、地名が「飯香岡」に変化という流れなのではないでしょうか。

その後、潮位が低くなり海も後退していったので人の居住エリアが拡大し、低地にも神社が出来た(=六所御影神社)という事なのでしょう。



二つ目はなぜ天武天皇が当地に八幡宮を建てさせたかです。

飯香岡八幡宮にはたくさんの境内社・境外社があるのですが、その中に取材に行った後、調べて飛び上がるほど驚いたお社があったのです。

それがこちら。

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飛鳥宮 御祭神は天武天皇!

取材した時は扁額の文字が達筆すぎてなんだかわからなかったという・・・

しかしながら疑問が残るのです。

「千葉県神社明細帳」には「飛鳥宮」の記載はありません。

しかも、

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三つお社が並んでいる中央が飛鳥宮なのですが、御覧の通り女千木です。

鰹木の数も女神を現わしています。

実は左のお社が大神宮で御祭神は豊受比賣命なのです。

扁額が間違っているのではないかと思って調べていたら、当神社のフェイスブックの記事にこの三つのお社について触れている記事がありました。

その記事に載っている境内図では左から「飛鳥宮・大神宮・高良社」となっていました。

ということは扁額が入れ替えられているということになります。

宮司さーん!宮司さぁーーーん!!

間違ってるよ~~~~~っ!!!!

(↑誰か伝えてあげてください)

ちなみに神紋は皇族を現わす菊でした。


謎が一つスッキリしたところで大神宮について補足。

アマテラスを祀っているのが通常なのに豊受姫だけがいるという点が「アマテラスは本殿にいるんやで~」という暗示にもなっていると思うんです。

そしていつの間にか増えていた飛鳥宮の謎は、たぶん御祭神が天武天皇なのがバレたらまずかったので名を変えていたのではないでしょうか。

神社明細帳に大鷲神社(天日鷲命)の記載があるのですが現在境内に見当たらないので、もしかしたら「鳥」繋がりで大鷲神社にカモフラージュしてこっそり奉祀していたのかも。皇家も称徳以後は天智天皇系ですしね、天武関係者だとバレると命を狙われたかもしれませんしね。


しかし市原市八幡に天武天皇がいらっしゃるとは・・・!

書きながらビックリです。前回まで書いていた記事の内容にも天武は関係ありまくりなのです!

百嶋先生は山下影姫を蘇我姫と記されていて、この蘇我姫から蘇我氏は派生したのだと考えています。

長年歴史マニアの間では天智・天武問題は論争による論争が繰り広げられてきていました。近年では大陸の資料を参考にする方やネットの発達で地域の伝承を紹介される方も増えたお陰で新たな発見もたくさんあります。そんな中でいまマニア間での定説は天智と兄弟ではないという説です。

じゃあどんな関係だったのかといえば、これまたいろいろな説があるのですが、天武は蘇我氏の血を引く皇子だったのではないかという説を唱える方もおります。

私もこの説が一番真実に近いのではないかと思っています。

なぜなら和風諡号が天渟中原真人天皇なのです。

真マコトの瀛氏インシの天皇という意味ですよっ!!!

一方天智は天命開尊、「別王ワケオウ」なのです。

百嶋神社考古学では「別」が入っている神名の方は正当王家外の人物と見做しています。そのルールからすれば中大兄皇子=天智は正当王家の人間ではないのです。だから蘇我系の皇女達を妻として自分の格を上げようとしたんですねー。


千葉市中央区蘇我町の蘇我比売神社は市原市八幡とは割と近い場所です。蘇我と八幡の間にある千葉市中央区生実町周辺は古代遺跡が多く残る地です。これらは菊間が拠点であったといわれている久々麻国造ククマコクゾウの勢力範囲に比定されています。

ククマと聞くと頭に浮かぶのはククリヒメです。

ククリヒメは菊理媛のことで主に白山神社の御祭神です。百嶋神社考古学では菊理姫は白山姫であり、大幡主の叔母にあたる人物です。白山姫は天御中主命でもあり、瀛氏一族=白族で兄弟に白川伯王がいるのです。


久々麻国造が瀛氏であり、当地が古代瀛氏の勢力地であり、天武が蘇我氏の血を引く皇子であったと考えるなら、当地に神社を建立した意図はハッキリします。

祖先所縁の地であった菊間周辺を改めて瀛氏一族の領地であると知らしめる為に、祖先を祀る神社を創建したと考えられるのです。

おっと!忘れちゃいけない!

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先程の「三つ並んだお社」の一番右は高良神社です。

御祭神は高良玉垂命・高御産靈神・神御産靈神。

高御産靈神は高木大神、神御産靈神は大幡主です。

神社さんのフェイスブックには「高良玉垂命=武内宿禰」と紹介されていましたが、

ち が い ま す よ 。

千葉県では武内宿禰が高良玉垂命のように祀られているところばかりなのですが百嶋神社考古学では別々の人物です。

高良玉垂命は開化天皇のことで、母は倭迹迹日百襲姫です。

そして武内宿禰の母が先程名前が出てきた山下影姫です。

どのような意図でこの二人を融合させているのか、まだまだ真意が汲み取れないのですが高良玉垂命(開化天皇)と武内宿禰の父は孝元天皇だからなのではないかと考えています。

武内宿禰が皇子であったとなれば、「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足が起こした皇族・蘇我氏の皇子を弑逆したクーデターであったという事になります。

叛逆を隠蔽するために各豪族に伝わっていた家伝を集めて焚書し、捏造した国史を作ったのだとしたら・・・!

我が国の古代史がわけわからん状態になっている原因は不比等の所為ですが、発端はこの事件から始まっていると断言できます。



さて最後は誰が祭神を入替たのかです。

天武天皇の時にはまだ八幡神ではなく女神であったと思います。

自身の祖先を奉斎する神社だったからこそ上総国総社にしたのでしょう。

ちなみに譽田別命は百嶋神社考古学では「別」王=別けられた王で本当の王族ではなかったと解釈しています。

千葉常胤も社殿の修繕をしていますから千葉一族の祭祀担当であった忌部粟飯原氏にも所縁の人物が祀られていたと考えます。


では誰が御祭神を入れ替えたのか?


これはもう答えがすぐ出ますね、源頼朝ですよ。

あー、とうとうヨリトモか・・・嫌いなんだよなー(*`ω´*)

でもそんな事もいってられないので簡潔に書きます。

房総での仲間集めの道中、あちこちの寺社仏閣に祈願しまくりな頼朝ですが、不可解なのは菊間若宮八幡宮に仁徳天皇を合祀させている事です。

思い入れを強くするような何らかの理由があったのでしょうか?


頼朝は源義朝の嫡男でしたが平家により島流しに遭ったりと不遇でした。

もし仁徳天皇をリスペクトしているのだとしたら、仁徳も不遇な目にあっていたがそれを乗り越えて大成したというような伝承があったのでしょうか?


考えてみると頼朝も仁徳も後世女好きとして伝わっている所とか共通していますね。頼朝はおそらく源氏再興のために武力が欲しくて力のある有力武家の娘に手を出していたと思います。

もしかして仁徳天皇も同じだった・・・?

正妻が嫉妬深いという点も似ています。

歴史は繰り返すと言いますが、捏造のやり方も繰り返されていたりして。



最後に飛鳥宮・太神宮・高良社以外の飯香岡八幡宮の境内社・境外社をご紹介。

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稲荷神社と不明の石宮と倉稲魂命の石碑

倉稲魂命=豊受姫=大宮女大神=コノハナサクヤヒメで瓊々杵と夫婦になった後、離縁してナガスネヒコ=大己貴=大国主=懿徳の嫁になっています。

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割れた石宮達と御田拾二神の石碑

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御神水 神龍泉

鳥居の扁額にも龍の彫刻があったり手水舎の水盥にも龍が彫ってありました

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道祖神社

道祖之神

おそらく久那斗神・八衢比古命・八衢比売命か

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海辺神社

豊玉彦命・豊玉姫命・塩土老翁命(=大幡主命)

正統瀛氏・白族ですね

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若宮八幡宮

菟道皇子・大鷦鷯命(=仁徳天皇)・呉比咩命・宇禮姫命

菟道皇子は菟道稚郎子、呉比咩命・宇禮姫命は

呉からきて織物技術を伝えたという姫達でしょうか

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天神社

本来は菅原道眞ですが女千木ですね

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金刀比羅神社

金山彦命

こちらも女千木、うーん?奥様の埴安姫が祀られている?

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ものがみの社(毛野上美乃社?)

不明、こちらも記録にはないお社ですね

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月山神社・出羽神社・湯殿山神社

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境外社:浅間神社

木花開耶姫命

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境外社:厳島神社

市杵島姫命

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境外社:八坂神社

須佐之男命


安葉大杉神社←写真撮り忘れた!Σ(゚д゚|||)

天日鷲命(石碑)


摂社末社はこのような顔ぶれです。

菊間・八幡周辺は千葉市中央区蘇我町周辺の神社との関連も含めて、まだまだ調査が必要な地域です・・・とまとめようとしていたら!飲もうとしていたコーヒーが鼻から出そうになるほどの情報をGETシテシマッタ・・・!

ぅ(@゚Д゚)@。Д。)わぁぁぁ~~~~ッ!!!!!!


ちょっ!取材行きます!乞うご期待!(。Д゚; 三 ;゚Д゚)アワワワワ






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弟橘媛は生きていた!⑥千葉市中央区千葉寺町 瀧蔵神社

2018-08-14 Tue 23:22

とうとうこのシリーズも最後です。

ラストはこちらの神社!


瀧蔵神社

千葉市中央区千葉寺町162


瀧蔵神社は海上山千葉寺センヨウジの境内にあるのです。

神仏習合の名残りですね。

この千葉寺は和同2年(709)に行基が開山という伝承を持っている古刹です。行基が開山と聞くと俄かに産鉄臭を感じてしまいます。

空海も行基も良質な産鉄地を求めて房総を行脚したという説があります。

実際あちこちで井戸掘ったり、「芋」と暗喩される金塊絡みの伝承や「灰汁無蕨」伝承もあります。鉄分の多い地の蕨は灰汁が無くなるそうなのです。

そんなアヤシイ古代の高僧が開山という千葉寺に神仏分離後も奉斎されている当神社は、珍しいだけでなく鎮座しておくだけの特別な理由があったのではないかと考えてしまいます。


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立派な千葉寺の山門。

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モチーフはここでも「鳥」。

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そしてこちらが瀧蔵神社。

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御賽銭箱がカッコイイ!!

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囲いに阻まれて近くで写真が撮れなかったのですが(残念)彫刻も素晴らしかったです~(涙)


こちらの御祭神は海津見神

亥鼻山に千葉氏が築城した際には千葉家五守護神の一つで元は寒川に鎮座していたといいます。

別当寺は真福寺(現在は廃寺)。有名な「千葉笑い」という奇祭は、神事の夜に行われたといいます。この奇祭は人々が仮装し仮面をつけ、武士であろうが主君であろうが自由に批判しみんなで笑ってストレス発散するという祭りです。

家康がこの祭りでは誰が何を言っても咎めないとお墨付きを与えていたともいいます。ということは江戸初期にはあったという事ですかね。

時の治世者はこの祭りで名が出たら翌年は自らの行いを気をつけたそうです。

それだけ影響力を持った行事だったんですね。

しかし民衆が盛り上がっている中、一体どのような神事が執り行われていたのかが気になるなぁ~。


御祭神の海津見神は豊玉彦=天太玉のことです。

そして境内社に・・・


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青龍神社もあるのです。

百嶋先生によれば青龍大権現は豊玉姫のことです。

そうすると豊玉彦(天太玉)とは親子関係で、

海津見神=豊玉彦、青龍神=豊玉姫です。


境内社は記録によれば、

天神社 菅原道眞公

稲荷神社 豊宇氣比賣命

厳島神社 市杵島姫・田心姫命=豊玉姫・湯津姫命=鴨玉依姫

三玉神社 少彦名命=事代主

大杦神社 少彦名命=事代主

三峰神社 伊弉册命

八幡神社 誉田別命=応神天皇

道祖神社 猿田彦命=大己貴=ナガスネヒコ


現在の境内社は

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針供養塔・子安観音・大杉神社

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弁財天

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境内にあった八幡神社と思われる千葉寺付近の境外に鎮座する若宮八幡

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こちらも境外社の慶応4年(1872)創建の三峯神社

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境外社の道祖神社


稲荷神社も境外なのですが、明治期に千葉寺町から稲荷町へと地域区分が変更になっています。その為現在は違う町に鎮座しているのですが、それだけが理由とは思えないほど瀧蔵神社から離れた場所に鎮座しているので、記録にはありませんが遷座しているのかなぁと思われます。

この稲荷神社については境外社として紹介するには書きたいことがいろいろと盛り沢山なので別記事にしたいと思います。


さて、シリーズ1からあちこちの神社を調査してきましたが、弟橘姫が療養した地として可能性が高いのは「千葉寺」なんじゃないかなぁと。

地形的にも高台にあり、縄文海進時も地上にありました。

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行基が寺を開基した地という事もひっかかります。

パワースポットだったからという理由かもしれません。

ですが私は古代の大いなる一族に所縁の土地であったから保護した、という可能性もあるのではないかと思います。

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太陽と月と星を現わした三光紋。

北斗七星と太陽と月を現わした九曜紋。

(九曜の解釈はヒンドゥー教的な考えと千葉氏は違うと考えます)

彼らのトーテムはでした。


海洋民族には星を崇拝できる天文学の知識と、航海中に陸地を探すために用いる鳥は重要でした。

黒潮に乗って九州を出発し四国・和歌山・伊豆と拠点を築き、房総にやってきた人々は海人族であり忌部でもあり白族でもあり出雲系でもあり物部でもあり。

なんと表現するのが一番ふさわしいのか判断できませんが、文字でお伝えする以上できれば固定観念に囚われない言葉を選びたいので、仮称で「星の民」としましょうか。

百嶋神社考古学の扉を開けてから半年近く経ちましたが、百嶋先生の遺された資料や先輩方のブログや助言などから学ばせていただいてきた中で少しだけ見えてくるようになり、星の民の痕跡は県内のいたるところに発見できるようになりました。

それらを結んだり紐解いたりしながら、房総の古代の姿を垣間見れたらいいなぁ~と思います。


弟橘姫は生きていた!シリーズ 終







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