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百嶋神社考古学を学びつつ古代の謎に挑戦中!

房総の聖徳太子と蘇我氏の残香

2018-10-21 Sun 22:40

今回は聖徳太子について迫りたいと思います。


子供の頃にコミックス「日出処の天子」を読んで以来、現在に至るまで聖徳太子時代の謎を追いかけてきました。

彼だけでなく家族や蘇我氏など、関係者達も謎に包まれている飛鳥時代。

その後に続く天智・天武も本当に謎だらけです。

謎にしてしまった元凶は多氏・中臣氏・藤原氏の阿蘇軍団かな~と思ってます。

乙巳の変が起こり日本の真実の古代史は隠されてしまいました。

ですが現代の歴史愛好家の方や研究者の方の御尽力で、WEBにこれまで調査できなかった限定地域の伝承・寺社の縁起などの情報が掲載されるようになり、次第に真実の古代日本の姿が明らかになってきていると感じています。

私も郷土を愛する者として千葉県内の聖徳太子所縁の寺院をご紹介します。


①鹿野山琳聖院神野寺ジンヤジ

 君津市鹿野山324-1

真言宗智山派、推古天皇6年(598)聖徳太子の創建といい、堂宇建立のとき多くの鹿が集まって工事を助けたので現山号になったという。慈覚大師円仁、親鸞が入山したと伝える。また別説では日本武尊が鬼を退治に山中を進撃していた際、迷ってしまったところを鹿がやってきて案内してくれたことから、鹿に感謝して鹿野山と呼ぶようになったとも。また神野寺は尊が鬼との戦いに苦戦していると、山頂に諸神が現れて尊の軍勢を守護したという故事にちなんで命名されたという。御本尊は伝聖徳大師作の軍荼利明王と薬師如来。軍荼利明王は阿久留王の垂迹として毎月法要が営まれている。また阿佐太子も神野寺に7年間滞在し推古8年(600)に当地で没したといい、山中に阿佐太子の塚が残るという(現在は所在不明)。


②如意山惣物院久原寺クバラジ

 君津市西猪原字久原243

真言宗智山派、関東八十八カ所霊場52番、新上総三十三カ所霊場11番、上総七福神(毘沙門天)。御本尊は正観世音(阿弥陀如来)。寺紋は桔梗。聖徳太子の創建。


③妙覚山岩冨寺

 富津市亀沢字岩冨山135

真言宗智山派、上総国薬師如来霊場第5番、新上総国三十三観音第18番。寺紋は桔梗。御本尊は千手観世音。推古天皇20年(612)に当国鎮護の為に聖徳太子が自ら十体の観音像を彫り岩窟に安置した。それを斉明6年(660)堂を建立、天平16年(744)行基が伽藍を造営、貞観9年(867)円仁が伽藍を再建、長禄2年(1456)将軍足利義政が修復。天文13年(1544)賊により放火され焼失。仏像は無事であったため同21年(1552)に本堂再建し安置。元禄16年(1703)に法印秀快が講堂再建。境内に千体地蔵堂(御本尊:千手観世音と千体地蔵菩薩)、音無観音堂(御本尊:正観世音菩薩)がある。


④聖徳山宝珠院太子堂寺

 市原市真ヶ谷字天神畑21-2

箱根で行基が太子の霊に感応、「自分の仏像を作れば国を守護する」との言葉を受けて彫った聖徳太子像を源平争乱の際、僧・源海が戦禍を畏れて当地に安置した。現在仏像は盗まれて立派な厨子だけが残るという。また理由は不明だが当寺に葦毛・月毛の馬で来た者は栄えるという伝承がある。


⑤薬王山龍昌寺

 市原市飯沼字下口888

曹洞宗。御本尊は薬師如来。天正10年(1582)開山。太子堂の御本尊は聖徳太子で慶長19年(1614)安置。太子手彫りの救世観音がある。伝承によると御本尊は聖徳太子が彫った三体仏のうちの一つで救世観音像。太子が人々を救うために難波の海に沈めたところ養老川の河口に漂着した。その500年後の天仁元年(1108)龍昌禅師が春日明神の夢告げで発見した。当地には太子に纏わる地名が伝わっている。一つは往古黒駒に乗った太子が当地に馬で立っていた場所ということから「飆馬台ヒョウマダイ」という地名。もう一つの「森山」という地名は守屋が魔をなさんと霞の中に姿を現さず、霞の中に消えると晴れたことから、守屋魔で森山となったという。別名で日翳原・霞原とも呼ばれた。(現在両字名は残っていないが、もしかしたら小字ではなく小名なのかもしれない)


⑥瑠璃光山浄土院安養寺

 いすみ市深谷字越畑台1693

天台宗、火伏で有名。御本尊の薬師瑠璃光如来は聖徳太子の作と伝わる。


⑦仏母山利宮院御摩耶坊金剛吉祥寺

 酒々井町本佐倉字根古谷969-1

真言宗智山派。御本尊の摩耶夫人像は聖徳太子が生育の恩に報いるために彫ったという秘仏で「見たら目がつぶれる」と伝えられている。大同2年(807)弘法大師が国家鎮護の為当地に安置。境内に薬師堂(御本尊:薬師瑠璃光如来)、観音堂(御本尊:観世音菩薩)、阿弥陀堂(御本尊:阿弥陀如来)、大師堂(御本尊:弘法大師)がある。


⑧慈眼山證誠院

 松戸市松戸新田604-2

真言宗智山派。太子作の延命地蔵菩薩がある。この仏像は元は駿河国竹ノ下村宝鏡寺にあったが、元文元年第8世・大忍が武藏國に来錫した時に江戸市民を救うために證誠院を創建し移転。近代になり大隅新太郎が頽廃していた同寺を昭和13年(1938)私有地を寄贈し同寺を移転再建。境内に白龍大権現などが祀られている。


⑨海上山妙福寺

 銚子市妙見町1465

元は匝瑳市入山崎にあり槃若寺といった(その当時は真言宗)。正和3年(1314)日蓮宗に改宗、正徳5年(1715)に銚子に移動した。般若寺時代からの聖徳太子作の北辰妙見大菩薩像があり、この仏像は祭祀の起源であるという。この菩薩像は元は源満仲の私仏で代々源家に伝えられてきたもので、後に頼朝や豊臣秀吉も尊崇。加藤清正が三韓征伐出発の際、 清正に授けられ帰国後は大阪城中に奉祀。江戸時代になり江戸城中から多古城主・松平家に伝わり、正徳5年平山久甫など幕府及び松平家などが発起人となり当寺に祀られた。



太子堂があるor太子像がある、というだけの寺院は省きましたが、まだまだ拾い切れていないお寺さんがあると思います。他県の状況は調べておりませんが、太子創建の寺院や太子手彫りの仏像がこんなにあるのは普通のことなのでしょうか?

銚子の妙福寺の妙見大菩薩像は往古から千葉に伝わっていたものではありませんが、妙見信仰が広まる切欠となった仏が千葉県にあるということに因縁を感じてしまいます。都からだいぶ離れている東夷の地に所縁の寺院がこれだけあることは、やはり地縁があったからでは?と思うのです。


鹿野山神野寺については院号が「琳聖院」です。

聖徳太子絡みの伝承に百済聖明王の第三皇子・琳聖太子が聖徳太子に謁見したというものが伝わっています。琳聖太子は正史に名の残っていない方なので、いまのところ伝承の域を越えない存在となっています。

しかしこのように寺院の院号に使われていたりする事を考えると、実在した人物だよね~と思えてくるのです。しかし琳聖太子が当地に来たという伝承はありません。ならば阿佐太子=琳聖太子ということなのでしょうか。


金剛吉祥寺の摩耶夫人像に関しては見たら目が潰れるそうですが、よく製鉄関連地だと製鉄民が職業病で片目を悪くしていたことから片目に関する事や目が潰れる、逆に目がよくなるという伝承が残されます。

ですが、この寺の場合は見られたらまずいという意味じゃないかと感じました。

なぜなら摩耶夫人信仰とは釈迦の実母の摩耶夫人が釈迦を産んで七日後に亡くなってしまったことにちなみ、女性が出産子育て婦人病の願掛けをする以外に、男性も幼い時に母を亡くした人が母恋いの想いから信仰することが多いそうなのです。

正史だと太子の母・穴穂部間人皇女は太子が亡くなったのと同じ月に亡くなってます。もしかしたら仏像に太子の本当の母の命日が刻まれていたるするのではないでしょうか。または仏像を彫り上げた日付が太子が亡くなったとされる月日よりも後であったりとか。公になると「じゃあ聖徳太子は誰なんだよ」という事になってしまうから秘仏なんじゃないかなと。


中世の太子信仰が県内でどのぐらい浸透していたのかわかりませんが、神社を巡っていると弘法大師を祀る大師堂とは別に、時折聖徳太子堂や石宮を見かけます。聖徳太子=蘇我入鹿ならば市原領主家であった蘇我稲目一族の後裔ですから、市原市との地縁は深かったはずです。薬王山龍昌寺に伝わる聖徳太子にちなむ地名伝説は現在の字名に発見できないのでのたうち回るしかないのですが、継続して調査しようと思います。


また龍角寺古墳群で有名な印旛郡栄町にある岩屋古墳は推古天皇陵にも匹敵する方墳で築造の年代的に当時の中央の有力者であった蘇我氏との結びつきが強かったのではないかと考えられています。

岩屋古墳の石室は早くから発かれていたと伝わっています。

馬子の墓といわれている石舞台古墳も表土を剥ぎ取られた形で石室が晒されていますが、墓を発くということは埋葬されている一族の祖先を蔑ろにする行為であり、その一族の繁栄を阻む意図があっての行為でもあったようです。

そのように解釈するならば、岩屋古墳も蘇我一族に関連する人物の墓であった可能性があるのです。


最後に印西市鹿黒の地名伝承をご紹介します。

「角川地名大辞典12千葉県」によると

かぐろ 鹿黒〈印西町〉

地名の由来に関し、蘇我入鹿が殺された時その縁者が入鹿の首を携えて来て葬り、ここに住居したことによるとする説がある(印旛郡誌)

とあります。

持ってきた入鹿の首が時間経過で黒く変色していたのかな~(汗)と妄想を掻き立てられる一文で、この鹿黒の地名伝承を知って絶対千葉県と蘇我氏は関係あったはずだっ!と確信したのです。

なぜなら敵から逃走を図る場合、縁も所縁もない土地に逃げないと思うからです。縁者と入鹿がどのような関係であったかは不明ですが、一族の者であっても従者であったとしても、下総の印西市周辺が蘇我氏の領地であったという可能性は非常に高いのです。先に書いた岩屋古墳も印旛沼の対岸になります。この周辺には蘇我氏と同族であった物部氏所縁の神社・鳥見神社が集中して鎮座してもいます。

混沌としたフサ国の古代ですが、調査は楽しいのでまだまだがんばります♪






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「フサ国」=「扶桑フーサン国」!!

2018-10-04 Thu 21:30

まずは、こちらの石碑をご覧ください。


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これは千葉市中央区稲荷町に鎮座する稲荷神社境内にある石碑です。

この「扶桑教會」の「扶桑」という言葉なのですが、県内の石碑に時々見られます。

扶桑をWikipediaで調べると


扶桑(ふそう、フーサン、英: Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。


とあります。

そう、中国語での発音はフーサンなのです!

今回は「総フサの語源は扶桑フーサンなのではないか、もしかして扶桑国は房総にあったんじゃないか」という疑念をコツコツと調査してきた成果をご報告したいと思います。


扶桑国については中国の書物である「山海経」「淮南子」「史記正義」「宋書」などに記述がみられ、中でも「梁書」に詳しい記載があります。

以下「梁書」より。


扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略) 永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。 「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。 南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。 国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。 牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。 結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。 親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。 かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」 また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))



ウィキと「梁書」の文章中、私がムムムッと思った点を幾つか解説していきたいと思います。


その1 巨樹伝説

千葉県にも巨樹伝説があります。「下総」の地名由来伝承に「総とは木の枝を指し、ある時この国に生えている大楠を占うと〈この巨木は大凶事のもと〉と出たので木を伐り倒した。倒れた大楠の上の枝側を上総、下の枝側を下総とした」というものがある。

旭市の椿海地区には猿田彦が国境に植えたという椿の大木の伝説があり、その大木が倒れて抜けた後に水が溜まったのが椿海になったという。ここでもやはり大木が倒れた上の方を上総、下の方を下総としている。


その2 扶桑の木の葉は桐に似ている

天皇家の紋でもある「菊紋」と「桐紋」。この二つの紋は寺社でよく見かけます。

この桐と似ているという点がとても気になります。

菊紋はシュメール由来だといわれていますが、桐紋については何処発生なのか考えたことがありませんでした。もしかしたら扶桑国発祥の紋で「桐」ではなく「扶桑」であったのではないか?そうなると扶桑国王は正統王朝系の人物であったと考えられます。

植物:扶桑と桐を見比べたいところですが残念な事に扶桑は失われており、どのような形状であったのかは文字でしか伝わっていません。


その3 武力がない

一国でありながら軍事力がないということはすごい事です。「争わない」というスタンスは九州王朝を彷彿とさせます。


その4 国王の名は乙祁

この王の名に関して乙祁=イツキと読むとする説をHP「蒲生新田の庭先考察」様が唱えていらっしゃいます。

その説を受け入れると、乙祁=イツキ=齋=イワイで香取神宮の斎主/伊波比主命に比定できるのです。

フサ=扶桑国由来で、国王:乙祁=イワイヌシであるとすれば、下総国一宮香取神宮に祀られている事実から推測して、下総国に扶桑国があったと考えられます。


その5 扶桑国人は鹿を飼う

千葉県の寺社に馴染みの深い「鹿」。香取神宮と茨城県に鎮座する鹿島神宮では神使として鹿を飼育しています。

猟師が間違えて殺してしまった神使の鹿を祀る香取市の落文神社や聖徳太子が寺を建てようとした時に鹿が手伝ったという縁起を持つ君津市の神野寺など、鹿に纏わる伝承が数多く残ります。

また鹿をトーテムとする氏族と言えば物部氏です。

印旛沼周辺には物部氏の祖神:ニギハヤヒを祀る神社である鳥見神社があり、古代においては現匝瑳市や四街道市辺りは物部氏の領地でした。


その6 仏教が伝わっていた

千葉県の寺院の縁起に多いのが、〇〇で発見された仏像を祀ったというパターンです。海中や土中、井戸の中、山の洞窟の中など、様々な場所から仏像が発見されています。

放棄された仏像が仏教が広まっていた扶桑国人のものであるとすれば、他の宗教を信奉する勢力との間に戦争があった痕跡ではないでしょうか。



以上、着目した点を書き連ねてみましたが、何しろ千葉県の古代はまったく解明されていないので、この推測がどの程度真実に迫っているのか測りかねます。

ですが499年に扶桑国の僧:慧深が中国へ渡ったという史実は貴重な証拠です。

大和国の天皇が武烈天皇(←実在したかはおいといて)だった頃、東国にこれだけの文化を持つ国があったのです。

そして扶桑フーサン国が房総にあったのだとしたら、妙だとしか思えない上総から安房の分離(しかも一度上総に戻り再び分離)、数多く発見されて祀られた仏像達の謎、後年度々起きる蝦夷の反乱も、扶桑国が別の勢力に乗っ取られたと考える事でキレイに一連の流れになってしまうのです。


バラバラだったピースが次第に埋まってきている気がします。








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飯香岡八幡宮・柳楯神事と蘇我氏の残影

2018-09-09 Sun 01:07

鉄は熱い内に打て!ということで、本日取材に行った寺社をご報告!

どうぞ↓こちらをご覧ください。


光善寺薬師堂

市原市門前195-9付近

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こちらの薬師堂の御縁起ですが・・・

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光善寺薬師堂縁起

言い伝えでは薬師堂は元禄十三年庚辰年(西暦1700年)迄に九百七十年を経た古い建物です。

また、本尊の薬師如来は聖武天皇治世の神亀元年申子(西暦724年)秋九月十二日に行基菩薩が一夜で造仏したと伝えられております。

当地建立の縁起では光善寺は市原領主曽我稲目末葉で上総之介光重の一子曽我上総太郎光善で、その名を寺号としたと伝えられております。


市原領主・曽我稲目!?


曽我じゃなくて蘇我にすれば、皆さんわかりますよね?

そう、蘇我馬子の父、蘇我稲目のことだと思います!

ということは、往古この付近は蘇我氏の領地であったということですよっ!!!

千葉市中央区に「蘇我」という地名があることも「蘇我比咩神社」があることも、すべて繋がるんですよっ!!!ヽ(≧∀≦)ノ


地図上で確認すると光善寺薬師堂と蘇我比咩神社の位置はかなり離れています。

しかし私は蘇我比咩神社の元々の鎮座地は現在地ではないと考えているので、元宮地は市原にあったという可能性もあります。

注意すべき点として房総に残る中臣鎌足伝説は木更津市内にあるので、同じ内房の海沿いにある事を考えても、藤原一族がいろいろ手を加えた可能性は否めません。


さて、今回の発見と共に光善寺にも関わる神事をご紹介します。

前回の記事で書いた飯香岡八幡宮の特殊神事に「柳楯神事」というものがあります。

神事の流れは市原地区の「司家」と呼ばれる2家が祭礼の為に柳で楯を作る神事で、光善寺跡で出振舞を受けて出発し市原八幡宮にて参拝、阿須波神社にて旅の無事を祈願し古代道を進み五所地区へ入り、五所の御三家と呼ばれる氏子の持成しを受け一泊し飯香岡八幡宮に迎えられるという行程となっています。

神事の由来は二つあります。

その1

文治2年(1186)年に書かれたという市原市市原の光善寺に伝わる「薬師如来縁起」によると市原領主の系譜を引く曽我太郎光善が病に苦しんでいたところ、峯の薬師のお告げにより高僧行基が市原に下向し薬師仏を彫られたおかげで無事平癒。その後、行基が当地に御堂を建立し説法していると、瑞石の上に「戴冠の異人」が現れた。その正体は八幡神であったため麦飯と柳の箸でもてなし、以来、八幡宮の祭礼に柳の楯を奉ずるようになったという。

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この石に八幡神が・・・!

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その2

大永3年(1523)に五所の中嶋三郎治によって記されたとされる「八幡宮伝記」によると五所御三家(中村家・浅野家・中嶋家)の先祖が白鳳2年3月花見をしながら都の古社への参拝、更に筑紫へと足を伸ばそうという話で盛り上がり、旅の神である阿須波神社に詣で道中の安全を祈り旅に出発。筑前の筥崎八幡宮に参拝した夜、夢の中に八幡大神が出現し神前に捧げられていた神璽と楯を授けられ、はやくこの地を立ち去るよう告げた。神夢だと感じた3人は柳で作った楯を筏にし、神に授けられた神璽と神宝を乗せ袖ヶ浦の手長の浜に流れ着くようにと願いながら海に流した。そして急ぎ上総国に帰り、再び阿須波神社にお礼参りをして海へと急ぐと、蒼野が原の芦が繁茂する入り江に光り輝く物が見えたので、近寄り確かめると筑前で海に流した神璽と神宝であったという。この神璽と神宝を祀った神社が飯香岡八幡宮である。また、柳楯は筑前の国から迎えた神の乗り物(筏)であるという。

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市原八幡宮 市原市市原字辻1

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御祭神 八幡大神

神紋 左三つ巴

「戴冠の異人」と称される方だと思います。

戴冠ということは天皇だと思うのですが應神天皇ではない方だと。

異人ということは渡来人ということを指しているのでしょうか?

百嶋神社考古学だと八幡大神=大幡主ですが、

こちらの神社ではどなたが祀られてるんでしょうね。

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境内社 後ろの石宮は牛頭天王(スサノオ)、前は不明

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境内社 こちらも不明の石宮

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二重の虹が出た!

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阿須波神社 市原市市原字阿須波74

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御祭神 阿須波神(建南方命)

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金毘羅大権現(大山咋命)


伝承では柳楯は九州から迎えた神の乗り物(筏)であるとされているようですが、これは百嶋先生の資料にあったバンブーボートを指しているのではないかと思います。

この神事を単純に房州人が筑前から神を盗んできたという窃盗事件だとは解釈しないでくださいね(汗)

おそらく九州の筥崎宮を奉斎していた一族が御祭神を奪われるような危機に直面したんだと思います。領地を奪われたのかもしれません。それで昔房総に移住した同族を頼って神璽を携えて逃げてきたのかもしれませんし、同族に神宝を託したのかもしれません。

また市原領主であった天皇家に繋がる一族である蘇我氏に庇護を求めた可能性もあります。もしかしたら八幡大神である「戴冠の異人」は蘇我氏の誰かを指しているのかもしれません。


柳楯神事は失われた九州王朝の流れを汲む、蘇我氏から発祥したのでしょうか?

阿須波神社に伝わる万葉集の歌は「庭中」にある社を詠んだ歌ですが、一体誰が住む屋敷の庭中だったのでしょうか?

「戴冠の異人」と称された八幡大神の正体はどなたなのでしょうか?



謎がより深まった週末でした。





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市原市八幡 飯香岡八幡宮

2018-08-29 Wed 23:11

また間が空いてしまいましたー(反省)

なんか最近一つの神社の事を掘り下げていくと、いろいろ気付く事がありすぎまして。そういえばアノ神社もこんなのあったなとか、コッチの神社と摂社関係にあるとか拾っていくと、いつまでも調査が終わらず記事にするのが遅くなりすぎてしまうという悪循環に陥っています。

ちょっと来月からリアルが忙しくなりそうなので折角ブログなのだからリンクすればいいんだよなと思い、なるべく記事にしていこうと思います。


さて、今回は地名の由来になっているというコチラの神社です。

 

飯香岡八幡宮

市原市八幡1057-1

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境内の御由緒から

国府総社 飯香岡八幡宮御由緒

御祭神 誉田別命

    息長帯姫命

    玉依姫命

    ほか配祀七柱

由緒沿革

神社縁起によると、この地は御影山と称し六所御影神社が鎮座していたが、白鳳三年(675)天武天皇の勅命により八幡宮として創建されたという。また、天平宝字三年(795)には国府総社とされ、一国一社の八幡宮として、また上総国の総社として広く信仰を集めてゆくこととなった。保元三年(1158)の石清水八幡宮の諸国荘園官符にみえる「上総国市原別宮」は本宮であるといわれている。

源氏・千葉氏・北条氏・足利氏・徳川氏を始め近隣に所領を持つ大名・旗本など武将の崇敬が厚く、徳川家康から社領百五十石を安堵され、格式十万石の待遇を受けた。明治維新以降は県社に列格された。

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本殿に近づけない&見えない造り(つД`)ノ

普通の八幡様の感覚で訪れたので拝殿の大きさに驚きました。

本殿も含めて上総国一宮の玉前神社と同じぐらいの規模に感じました。

(玉前神社の記事はこちら 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社

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神紋は提灯を見ると菊と五七桐なのですが・・・

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拝殿には菊と五三桐

そしてその上には「フルール・ド・リス」が!

「フルール・ド・リス」についてはブログ「常陸国ふしぎ探検隊」の河野さんがこの紋章が使われている社の神様は女神であるとおっしゃってます。

(ブログ「常陸国ふしぎ探検隊」108.境神社探検記)


そして五三桐紋は百嶋先生曰く女神の紋なのです。

河野さんと百嶋先生、お二人の見解からして当八幡宮の主神は女神ということになるのです。

しかも規模から考えても相当位の高い女神様が祀られていたはずなのです。

ですが現在は譽田別命・・・(゚д゚)

当八幡宮は後から権力者によって主神の入替えがあったようです。


何言いだしてるんだこの人、そんな事あるわけないでしょって思いますよね。

まあ暫くお付き合いください。


まず一つ目は飯香岡八幡宮の成り立ちです。

元々は「六所御影神社」が鎮座していたと由緒にありましたよね。

現在の八幡宮を拝殿と見立てると、八幡宮の鎮座地から見て丁度真後ろになる、いわゆる「本殿」の位置に鎮座しているのです。

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こちらが噂の六所御影神社

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神紋は十六花弁菊


この神社鎮座地の地名は古くは「御影」と「石握(伊静とも)」という二つの地区から成り立っていたといい、飯香岡八幡宮では「元宮」と呼んでいるそうです。

御祭神は当初は大日孁貴尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱で、何時かは不明ですが瓊々杵尊・布留大神・大宮女大神・天照皇大神の4柱も加わったそうです。大日孁貴尊と天照皇大神は同神なので1柱とすると、この6柱の神を祀る神社ということで「六所」と言われるようになったんですかね。

人間関係で説明すると大日孁貴尊(=天照皇大神)はヒミコです。

伊弉諾と伊弉冉は夫婦。瓊々杵尊は大宮女大神(=天鈿女=コノハナサクヤヒメ=神吾田津姫)と夫婦です。

問題は布留大神です。

物部系の神名ですが、どなたの異名なのかは不明。他の御祭神から検討をつけるならば、この面子で足りないのは大己貴=ナガスネヒコ=懿徳かなぁと思います。

布留大神が当地に奉斎されている事実は、富津の地名由来に出てくる「フツ」という名称が物部氏関連であると考えていい要素の一つになると思います。また当地の古代地名「石握」についても、石が付く地名はほぼ物部に関係すると考えているので、なかなか彼らの痕跡が出てこない中で今後の新たな発見が期待できます。

他にも古地名である「御影」からは御影=天御影命=天兒屋根命=春日神社で藤原氏の影響も考えてしまいます。内房には鎌足伝説もありますしね。

今の当地の地名「八幡」は「ヤワタ」と読みます。

ハチマンではなくヤワタなのです。

「大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれる。」と百嶋先生が説明している大幡主こそ大本の八幡神ですから、本来は「ハチマン」ではなく「ヤワタ」という読み方が正しいのです。

当地が大幡主系一族の領地であった痕跡ですかね。


おっと!忘れてはいけないのが当地の日本武尊伝承です。

タケルが東征の際、六所御影神社で休憩したそうです。

その時に社人がタケルに食事を捧げたところ飯の香りを賞したといい、それから「御影山」を「飯香岡」と呼ぶようになったそうです。

またしても「飯」伝説!!!

飯伝説といえば忌部です!

しかしタケルが当地に来た時代はまだ八幡周辺は海底だったはずなのですよ。

Flood Maps(潮位+9m)で見てみましょう。

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地図の赤い丸が八幡宮の場所です。

完全に海の中ですね。

ということは六所御影神社も海の底です。

ではタケルが来た時に飯を捧げた社人とはどこの社人だったのか。

ココしかないでしょう!!

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前にも記事にてご紹介させていただきました菊間の若宮八幡神社です!


過去記事 市原市菊間 若宮八幡神社①

     市原市菊間 若宮八幡神社②


Flood Maps(潮位+9m)だと下の地図の赤丸です。

台地の上ですね、という事は古代はここが「御影山」であり「飯香岡」であったのではないでしょうか。

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実は前に取材した時にあれっと思うことがあったんですよ。

それがこの写真。

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この写真、実は若宮八幡神社の拝殿なのです。

当時はまったく疑問に思わなかったのですが、いまは違います!(ちょっと成長しました!)

おそらく主祭神が女神から男神に変わった時に、拝殿に彫刻された五三桐紋部分に違う紋の金属製カバーをしたんですね。

本来の神紋が五三桐であったならば私が取材に行った時に、すんごく親切な地元の氏子さんがとても詳細に若宮八幡内を案内してくださったのです。その時に鳥居の側に鎮座している天照大神の石宮に最初にお参りするというシキタリを教えてくださった事が重要な意味を帯びてきます。

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天照皇大神宮(天照大神)


しかもこの社が当神社に合祀された理由が「有縁由て他所より移し祀る」なのですから、ものすごくアヤシイ。


おそらく菊間にあった「御影山」には元々天照大神(=大日孁貴命)が奉斎されていてタケルが来訪した事からタケルを配祀、地名が「飯香岡」に変化という流れなのではないでしょうか。

その後、潮位が低くなり海も後退していったので人の居住エリアが拡大し、低地にも神社が出来た(=六所御影神社)という事なのでしょう。



二つ目はなぜ天武天皇が当地に八幡宮を建てさせたかです。

飯香岡八幡宮にはたくさんの境内社・境外社があるのですが、その中に取材に行った後、調べて飛び上がるほど驚いたお社があったのです。

それがこちら。

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飛鳥宮 御祭神は天武天皇!

取材した時は扁額の文字が達筆すぎてなんだかわからなかったという・・・

しかしながら疑問が残るのです。

「千葉県神社明細帳」には「飛鳥宮」の記載はありません。

しかも、

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三つお社が並んでいる中央が飛鳥宮なのですが、御覧の通り女千木です。

鰹木の数も女神を現わしています。

実は左のお社が大神宮で御祭神は豊受比賣命なのです。

扁額が間違っているのではないかと思って調べていたら、当神社のフェイスブックの記事にこの三つのお社について触れている記事がありました。

その記事に載っている境内図では左から「飛鳥宮・大神宮・高良社」となっていました。

ということは扁額が入れ替えられているということになります。

宮司さーん!宮司さぁーーーん!!

間違ってるよ~~~~~っ!!!!

(↑誰か伝えてあげてください)

ちなみに神紋は皇族を現わす菊でした。


謎が一つスッキリしたところで大神宮について補足。

アマテラスを祀っているのが通常なのに豊受姫だけがいるという点が「アマテラスは本殿にいるんやで~」という暗示にもなっていると思うんです。

そしていつの間にか増えていた飛鳥宮の謎は、たぶん御祭神が天武天皇なのがバレたらまずかったので名を変えていたのではないでしょうか。

神社明細帳に大鷲神社(天日鷲命)の記載があるのですが現在境内に見当たらないので、もしかしたら「鳥」繋がりで大鷲神社にカモフラージュしてこっそり奉祀していたのかも。皇家も称徳以後は天智天皇系ですしね、天武関係者だとバレると命を狙われたかもしれませんしね。


しかし市原市八幡に天武天皇がいらっしゃるとは・・・!

書きながらビックリです。前回まで書いていた記事の内容にも天武は関係ありまくりなのです!

百嶋先生は山下影姫を蘇我姫と記されていて、この蘇我姫から蘇我氏は派生したのだと考えています。

長年歴史マニアの間では天智・天武問題は論争による論争が繰り広げられてきていました。近年では大陸の資料を参考にする方やネットの発達で地域の伝承を紹介される方も増えたお陰で新たな発見もたくさんあります。そんな中でいまマニア間での定説は天智と兄弟ではないという説です。

じゃあどんな関係だったのかといえば、これまたいろいろな説があるのですが、天武は蘇我氏の血を引く皇子だったのではないかという説を唱える方もおります。

私もこの説が一番真実に近いのではないかと思っています。

なぜなら和風諡号が天渟中原真人天皇なのです。

真マコトの瀛氏インシの天皇という意味ですよっ!!!

一方天智は天命開尊、「別王ワケオウ」なのです。

百嶋神社考古学では「別」が入っている神名の方は正当王家外の人物と見做しています。そのルールからすれば中大兄皇子=天智は正当王家の人間ではないのです。だから蘇我系の皇女達を妻として自分の格を上げようとしたんですねー。


千葉市中央区蘇我町の蘇我比売神社は市原市八幡とは割と近い場所です。蘇我と八幡の間にある千葉市中央区生実町周辺は古代遺跡が多く残る地です。これらは菊間が拠点であったといわれている久々麻国造ククマコクゾウの勢力範囲に比定されています。

ククマと聞くと頭に浮かぶのはククリヒメです。

ククリヒメは菊理媛のことで主に白山神社の御祭神です。百嶋神社考古学では菊理姫は白山姫であり、大幡主の叔母にあたる人物です。白山姫は天御中主命でもあり、瀛氏一族=白族で兄弟に白川伯王がいるのです。


久々麻国造が瀛氏であり、当地が古代瀛氏の勢力地であり、天武が蘇我氏の血を引く皇子であったと考えるなら、当地に神社を建立した意図はハッキリします。

祖先所縁の地であった菊間周辺を改めて瀛氏一族の領地であると知らしめる為に、祖先を祀る神社を創建したと考えられるのです。

おっと!忘れちゃいけない!

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先程の「三つ並んだお社」の一番右は高良神社です。

御祭神は高良玉垂命・高御産靈神・神御産靈神。

高御産靈神は高木大神、神御産靈神は大幡主です。

神社さんのフェイスブックには「高良玉垂命=武内宿禰」と紹介されていましたが、

ち が い ま す よ 。

千葉県では武内宿禰が高良玉垂命のように祀られているところばかりなのですが百嶋神社考古学では別々の人物です。

高良玉垂命は開化天皇のことで、母は倭迹迹日百襲姫です。

そして武内宿禰の母が先程名前が出てきた山下影姫です。

どのような意図でこの二人を融合させているのか、まだまだ真意が汲み取れないのですが高良玉垂命(開化天皇)と武内宿禰の父は孝元天皇だからなのではないかと考えています。

武内宿禰が皇子であったとなれば、「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足が起こした皇族・蘇我氏の皇子を弑逆したクーデターであったという事になります。

叛逆を隠蔽するために各豪族に伝わっていた家伝を集めて焚書し、捏造した国史を作ったのだとしたら・・・!

我が国の古代史がわけわからん状態になっている原因は不比等の所為ですが、発端はこの事件から始まっていると断言できます。



さて最後は誰が祭神を入替たのかです。

天武天皇の時にはまだ八幡神ではなく女神であったと思います。

自身の祖先を奉斎する神社だったからこそ上総国総社にしたのでしょう。

ちなみに譽田別命は百嶋神社考古学では「別」王=別けられた王で本当の王族ではなかったと解釈しています。

千葉常胤も社殿の修繕をしていますから千葉一族の祭祀担当であった忌部粟飯原氏にも所縁の人物が祀られていたと考えます。


では誰が御祭神を入れ替えたのか?


これはもう答えがすぐ出ますね、源頼朝ですよ。

あー、とうとうヨリトモか・・・嫌いなんだよなー(*`ω´*)

でもそんな事もいってられないので簡潔に書きます。

房総での仲間集めの道中、あちこちの寺社仏閣に祈願しまくりな頼朝ですが、不可解なのは菊間若宮八幡宮に仁徳天皇を合祀させている事です。

思い入れを強くするような何らかの理由があったのでしょうか?


頼朝は源義朝の嫡男でしたが平家により島流しに遭ったりと不遇でした。

もし仁徳天皇をリスペクトしているのだとしたら、仁徳も不遇な目にあっていたがそれを乗り越えて大成したというような伝承があったのでしょうか?


考えてみると頼朝も仁徳も後世女好きとして伝わっている所とか共通していますね。頼朝はおそらく源氏再興のために武力が欲しくて力のある有力武家の娘に手を出していたと思います。

もしかして仁徳天皇も同じだった・・・?

正妻が嫉妬深いという点も似ています。

歴史は繰り返すと言いますが、捏造のやり方も繰り返されていたりして。



最後に飛鳥宮・太神宮・高良社以外の飯香岡八幡宮の境内社・境外社をご紹介。

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稲荷神社と不明の石宮と倉稲魂命の石碑

倉稲魂命=豊受姫=大宮女大神=コノハナサクヤヒメで瓊々杵と夫婦になった後、離縁してナガスネヒコ=大己貴=大国主=懿徳の嫁になっています。

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割れた石宮達と御田拾二神の石碑

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御神水 神龍泉

鳥居の扁額にも龍の彫刻があったり手水舎の水盥にも龍が彫ってありました

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道祖神社

道祖之神

おそらく久那斗神・八衢比古命・八衢比売命か

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海辺神社

豊玉彦命・豊玉姫命・塩土老翁命(=大幡主命)

正統瀛氏・白族ですね

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若宮八幡宮

菟道皇子・大鷦鷯命(=仁徳天皇)・呉比咩命・宇禮姫命

菟道皇子は菟道稚郎子、呉比咩命・宇禮姫命は

呉からきて織物技術を伝えたという姫達でしょうか

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天神社

本来は菅原道眞ですが女千木ですね

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金刀比羅神社

金山彦命

こちらも女千木、うーん?奥様の埴安姫が祀られている?

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ものがみの社(毛野上美乃社?)

不明、こちらも記録にはないお社ですね

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月山神社・出羽神社・湯殿山神社

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境外社:浅間神社

木花開耶姫命

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境外社:厳島神社

市杵島姫命

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境外社:八坂神社

須佐之男命


安葉大杉神社←写真撮り忘れた!Σ(゚д゚|||)

天日鷲命(石碑)


摂社末社はこのような顔ぶれです。

菊間・八幡周辺は千葉市中央区蘇我町周辺の神社との関連も含めて、まだまだ調査が必要な地域です・・・とまとめようとしていたら!飲もうとしていたコーヒーが鼻から出そうになるほどの情報をGETシテシマッタ・・・!

ぅ(@゚Д゚)@。Д。)わぁぁぁ~~~~ッ!!!!!!


ちょっ!取材行きます!乞うご期待!(。Д゚; 三 ;゚Д゚)アワワワワ






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弟橘媛は生きていた!⑥千葉市中央区千葉寺町 瀧蔵神社

2018-08-14 Tue 23:22

とうとうこのシリーズも最後です。

ラストはこちらの神社!


瀧蔵神社

千葉市中央区千葉寺町162


瀧蔵神社は海上山千葉寺センヨウジの境内にあるのです。

神仏習合の名残りですね。

この千葉寺は和同2年(709)に行基が開山という伝承を持っている古刹です。行基が開山と聞くと俄かに産鉄臭を感じてしまいます。

空海も行基も良質な産鉄地を求めて房総を行脚したという説があります。

実際あちこちで井戸掘ったり、「芋」と暗喩される金塊絡みの伝承や「灰汁無蕨」伝承もあります。鉄分の多い地の蕨は灰汁が無くなるそうなのです。

そんなアヤシイ古代の高僧が開山という千葉寺に神仏分離後も奉斎されている当神社は、珍しいだけでなく鎮座しておくだけの特別な理由があったのではないかと考えてしまいます。


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立派な千葉寺の山門。

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モチーフはここでも「鳥」。

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そしてこちらが瀧蔵神社。

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御賽銭箱がカッコイイ!!

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囲いに阻まれて近くで写真が撮れなかったのですが(残念)彫刻も素晴らしかったです~(涙)


こちらの御祭神は海津見神

亥鼻山に千葉氏が築城した際には千葉家五守護神の一つで元は寒川に鎮座していたといいます。

別当寺は真福寺(現在は廃寺)。有名な「千葉笑い」という奇祭は、神事の夜に行われたといいます。この奇祭は人々が仮装し仮面をつけ、武士であろうが主君であろうが自由に批判しみんなで笑ってストレス発散するという祭りです。

家康がこの祭りでは誰が何を言っても咎めないとお墨付きを与えていたともいいます。ということは江戸初期にはあったという事ですかね。

時の治世者はこの祭りで名が出たら翌年は自らの行いを気をつけたそうです。

それだけ影響力を持った行事だったんですね。

しかし民衆が盛り上がっている中、一体どのような神事が執り行われていたのかが気になるなぁ~。


御祭神の海津見神は豊玉彦=天太玉のことです。

そして境内社に・・・


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青龍神社もあるのです。

百嶋先生によれば青龍大権現は豊玉姫のことです。

そうすると豊玉彦(天太玉)とは親子関係で、

海津見神=豊玉彦、青龍神=豊玉姫です。


境内社は記録によれば、

天神社 菅原道眞公

稲荷神社 豊宇氣比賣命

厳島神社 市杵島姫・田心姫命=豊玉姫・湯津姫命=鴨玉依姫

三玉神社 少彦名命=事代主

大杦神社 少彦名命=事代主

三峰神社 伊弉册命

八幡神社 誉田別命=応神天皇

道祖神社 猿田彦命=大己貴=ナガスネヒコ


現在の境内社は

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針供養塔・子安観音・大杉神社

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弁財天

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境内にあった八幡神社と思われる千葉寺付近の境外に鎮座する若宮八幡

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こちらも境外社の慶応4年(1872)創建の三峯神社

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境外社の道祖神社


稲荷神社も境外なのですが、明治期に千葉寺町から稲荷町へと地域区分が変更になっています。その為現在は違う町に鎮座しているのですが、それだけが理由とは思えないほど瀧蔵神社から離れた場所に鎮座しているので、記録にはありませんが遷座しているのかなぁと思われます。

この稲荷神社については境外社として紹介するには書きたいことがいろいろと盛り沢山なので別記事にしたいと思います。


さて、シリーズ1からあちこちの神社を調査してきましたが、弟橘姫が療養した地として可能性が高いのは「千葉寺」なんじゃないかなぁと。

地形的にも高台にあり、縄文海進時も地上にありました。

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行基が寺を開基した地という事もひっかかります。

パワースポットだったからという理由かもしれません。

ですが私は古代の大いなる一族に所縁の土地であったから保護した、という可能性もあるのではないかと思います。

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太陽と月と星を現わした三光紋。

北斗七星と太陽と月を現わした九曜紋。

(九曜の解釈はヒンドゥー教的な考えと千葉氏は違うと考えます)

彼らのトーテムはでした。


海洋民族には星を崇拝できる天文学の知識と、航海中に陸地を探すために用いる鳥は重要でした。

黒潮に乗って九州を出発し四国・和歌山・伊豆と拠点を築き、房総にやってきた人々は海人族であり忌部でもあり白族でもあり出雲系でもあり物部でもあり。

なんと表現するのが一番ふさわしいのか判断できませんが、文字でお伝えする以上できれば固定観念に囚われない言葉を選びたいので、仮称で「星の民」としましょうか。

百嶋神社考古学の扉を開けてから半年近く経ちましたが、百嶋先生の遺された資料や先輩方のブログや助言などから学ばせていただいてきた中で少しだけ見えてくるようになり、星の民の痕跡は県内のいたるところに発見できるようになりました。

それらを結んだり紐解いたりしながら、房総の古代の姿を垣間見れたらいいなぁ~と思います。


弟橘姫は生きていた!シリーズ 終







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弟橘姫は生きていた!⑤千葉市中央区宮崎町 宮崎神社と慈眼寺

2018-08-13 Mon 00:05

弟橘姫シリーズ、その5です~。

今回で旧蘇我町調査は終わりです。

宮崎神社

千葉市中央区宮崎町582

JR蘇我駅からだと徒歩で20分ぐらいですかね。

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階段の脇の植え込みの中に鎮座されている石宮。

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すごく広い境内でした。

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こちらは旧蘇我町宮崎字宮作に鎮座しておりましたが、別の記録によると宮崎町811番地にあった灌漑用水地(三ツ池弁天)に鎮座していたが都市化により土地を売却することとなり、補償金を元に現在地に遷座したそうです。

そして中央区の開発が激しく、元宮の地がどこなんだか不明です(汗)

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稲モチーフの鍵なんて意匠が凝ってますが、稲ということは稲荷も関係ある?


御祭神は天宇受賣命伊邪那美命の2柱なのですが、明治42年(1909)に字熊ノ台に鎮座していた熊野神社を合祀しているので、元々の主神はウズメノミコトだけであったと思います。

しかもですね、この後寄らせていただいたお寺の御住職情報によると、元は大宮神社だったそうなのです!

そうなるとこの神社のカラーがはっきりと見えてきます。

大宮神社ならば県内の同神社の御祭神は大己貴命かウズメノミコトです。

だからウズメノミコトなのね、と納得です。


た だ し 、

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男千木!!!

大己貴命もいるのかな~?

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神紋はなかったのですが、意匠でこのような紋がありました。

ちょっと唐花紋に似ている?


そして境内にはたくさんの末社や石宮がありました。

千葉市中央区は都市化が進んでいるので、開発地にあった小さな祠は全部移動させられてしまったのでしょう。

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お馴染みの社日塔。

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なんとビックリ!

神武天皇の石宮。

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山王さまなので大山祇命か大山咋命ですね。


記録によると境内社として

天神社 菅原道眞公

神武社 神武天皇

三玉神社 大名牟遲命・少毘古名命

三玉神社 大山咋命

があったようで、合祀した熊野神社の境内社たち(以下)

三玉神社 大名牟遲命・少毘古名命

天照大神社 大己貴命・少彦名命・埴安姫命・倉稲魂命

天照大神社 不詳

が移動してきているようです。


この三玉神社はおそらく御靈神社のことでミタマに当て字したのだろうと。

こういう当て字クイズにぶち当たると、ホント地名研究しといてよかったなと思います。なぜなら地名もこのような「言葉遊び」のような変換をしているものがかなりあるので、センスを磨かれます(笑)


さて、冒頭でも書きましたが旧蘇我町の神社はこれで一旦終了なのです。

が、須賀神社は発見できませんでしたね~。

記録では名があるのですが、石宮の神名が判読できない場合が多くてあったのかも、無かったのかもわからないという状態です。

ただ一つはっきりしているのは「この辺りには須賀神社を祀る人々がいた」ということです。

須賀神社の御祭神はスサノオですから、スサノオを奉斎する氏族がいたということがわかっただけでも結果オーライです。


あ、旧蘇我町にはまだ取り上げたい神社があるので、そちらはこのシリーズとは別に記事にしたいと思います。


先程ちらっと書きましたが、宮崎神社の別当寺であっただろうお寺にも寄ってきました。


慈眼寺

千葉市中央区宮崎町605

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太子堂です。


慈眼寺とえば産鉄民です。

「目がよくなる仏様」とか「見ると目が潰れる仏様」とかの逸話があれば確実に産鉄民と関係があったと思うのですが、御住職に聞いたらそういう話は伝わっていないと言われてしまいました、ガクリ。

まぁ宮崎神社も元宮地は別ですしね(と自分を慰める)

ハッキリわからなくて残念です。


都市部は本当に不明な事ばかりですし、古い資料がなかなか出てこないのですが、今後も調査は続けようと思います。


次がこのシリーズのラストです、最後までおつきあいください。





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弟橘媛は生きていた!④千葉市中央区花輪町 子安社、同区大森町 神明神社

2018-08-07 Tue 23:11

すみません、別の事を追いかけていて更新が滞ってしまいました(土下座)

弟橘姫シリーズ、その4です。


子安社

千葉市中央区花輪町258

前回の赤井稲荷神社から薬師堂を通過し、高台から谷津に降りていき川を越えて対岸の高台が花輪町になっています。 koyasu2.gif

おおお、段数が・・・!ひぃはぁ(汗)

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この写真の左側の崖がかなり崩落してきておりまして、

今後がちょっと心配です。


当神社は旧蘇我町小花輪字藤葉に鎮座していたお社で、「千葉県神社明細帳」によると御祭神は「不詳」となっています。

鷲宮神社といい、赤井稲荷神社といい、この辺に一体何があったんでしょうか(汗)

だって自分達が奉斎していた御祭神がわからなくなるって普通ありえないですよね。

あるとしたら、

①住んでた人達がそっくり移動してしまった

②秘密にしすぎて誰もわからなくなった

のどちらかですよ。


まぁ子安さまなので、御祭神はコノハナサクヤヒメかなーと思います。

さて、記録によると境内に須賀神社(石宮)と浅間神社(石宮)があるのですが。


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摩耗してしまっていて神名が読み取れませんでした。

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こちらは仙元大菩薩=浅間神社ですかね。

ということは、先程の石宮が須賀神社?

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こちらの石尊様は元禄7年(1694)に氏子さんからの寄進です。


この他、明治42年(1909)に日枝神社(字中峠)を合祀しています。

中央区の日枝神社の御祭神はほぼ大己貴命なので、こちらも大己貴命=ナガスネヒコかな?

苔が敷き詰められていて綺麗な神社でした。



お次はちょっと離れたお隣の大森町へ。

神名神社

千葉市中央区大森町115


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住宅街の中にあるー!

神紋は左三つ巴

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色が違うのは修復したからですかね。

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御祭神が天照大神=大日孁貴命=ヒミコなだけに彫刻も「菊」ですね~。

旧蘇我町大森字東名に鎮座です。

明治43年(1910)に日枝神社(字山王前に鎮座 御祭神:大山祇命)を合祀しています。


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記録だと境内社に須賀社、愛宕社、三峯社があるそうなのですが・・・

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うーん、摩耗してしまって神名の読めないお社が多いですね。


薄くなってしまった神名を判読する能力があるといいんですが(汗)

あ、弟橘姫シリーズはまだシツコク続きます(笑)




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弟橘姫命は生きていた!③千葉市中央区赤井町 稲荷神社・薬師堂

2018-07-24 Tue 23:11

お待たせしました!

弟橘姫は生きていたシリーズ、その3です。


赤井稲荷神社

千葉市中央区赤井町156


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道路沿いのココが入口です。

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すぐ傍に民家が。

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この石段を登り・・・

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こちらが拝殿です。

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扁額は「稲荷大明神」なのに・・・



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男千木、むーん・・・(`・ω・´)


この神社はWEB上で「稲荷神社なのに狛狐がない神社」として彼方此方で珍しがられておりました。

私もその点に引っ掛かりをおぼえていたので現地に取材にきたのですが、稲荷神社の御祭神は主に「ウカノミタマ」「ウケモチノカミ」「トヨウケヒメ」で、すべて女神様です。


そうすると本殿の男千木は「ホントは別の神様で男神なんです~」という無言のアピールであることになります。

現在こちらの神社の御祭神は倉稲魂命となっていますが明治12年(1879)の記録によれば御祭神は「不詳」です。

大正11年(1922)には八幡神社(誉田別命)と天神社(菅原道眞)を合祀していますが、こちらは後からの合祀ですから本殿の男千木には関係ないでしょう。


皆様、ここで前回の記事を思い出してください。

大巌寺は鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。」んでしたよね。

大巌寺から見て、この神社は東に位置しているのです。

もしかしたら、この神社が大巌寺の愛宕社だった可能性もあります。

そうならば御祭神はカグツチ=金山彦です。

金山彦といえば「鉄」です。

「赤い水が湧き出ているから赤井町」という地名由来は、地中に砂鉄が多く含まれる為、地下水に多分に鉄分が含まれ、空気に触れると酸化して赤く濁ることを指しています。当地にはとても相応しい御祭神です。


でも何故「不詳」となってしまったのか。


当地が産鉄地だと判明してしまうと都合の悪い人がいたんですかね~。

でも御祭神を隠してもバレバレなんですけどもね~(笑)


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境内神社は以下。

八坂神社(素戔嗚尊)

道祖神(猿田彦・塞の神)

疱瘡神(大山津見神)

金刀比羅大権現(大物主神【大国主神】)

天神社(菅原道眞)

子安社(木花開耶姫)


明治12年の記録では須賀神社・三峯神社・祖霊社もあったのですが現在は見当たりません。須賀神社、ホント見当たらないなぁ(汗)


さて、赤井稲荷神社の近くには、これまた産鉄地臭を強く感じさせる場所があるのです!

それがコチラ!!

赤井薬師堂

千葉市中央区赤井町425



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太子堂



薬師如来は薬壺を持つ仏様です。

古代の製鉄は火床を見続けているために目を悪くしたり、鞴フイゴを踏み続けるために足腰を悪くしたりと身体に負担の大きい、とてもハードな重労働でした。

そのため産鉄民は薬師如来を奉斎して健康を願いました。


よく「眼病に効く」とか「見たら目が潰れる」とか、お寺の名前が「慈眼寺」などの伝承がある御薬師様は確実に産鉄と関連があった御堂だと言えます。

また赤井町周辺は古墳が多く残り縄文時代から人々が住んでいたことが判明しています。

縄文時代は海進していて現在の内陸まで海でした。

一例として潮位を+20mでマップをみてみると、こうなります。

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赤井稲荷神社の傍まで海です。

次第に海が後退していった後には鉄分を多く含んだ砂鉄の浜が広がっていたことでしょう。

古代の千葉県は豊富な鉄資源に恵まれていたのです。





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上総国の龍宮 一宮町 玉前神社

2018-07-16 Mon 00:14

しばらく御無沙汰しておりました。

弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。


上総国 一宮 玉前神社

千葉県長生郡一宮町一宮3048

一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。

以下Wikipediaより。


式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558年-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。

江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。

1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。

1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。


取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。

そのため二種類の写真でお届けします。

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一の鳥居

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リベンジの日は丁度夏越しの祓の日でした。

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拝殿 黒塗です。

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拝殿と本殿を横から

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内陣、神紋は菊だけ

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左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった~!



さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、


「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命

「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命

「神社覈録」前玉命

「舊事記」振魂尊子前玉命

「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命


などなど。


記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。

ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。

地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。

では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。

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神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、

実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?

1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「」玉依姫。

2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「」玉依姫。

3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。


玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、

どの玉依姫なのかわからなくなり、

御祭神に関して混乱が生じているようです。

何故こんな状況になっているのか。

理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされ

ハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。

古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へと

すり替えられています。

この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。

母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを

伏せておきたかった。

そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。

ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で

鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。


しかし百嶋先生は生前、

玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であると

おっしゃっておられました。

今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・

ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)

そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、

周辺の地理も含めて調査を行いました。

その上で判明した事実から検証したいと思います。


まず神玉依姫とは一体何者なのかから。

彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。

そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり

神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。

玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。

御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。

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この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。

御神体も玉だといわれており、赤い玉説、黒い玉説があります。

また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、

その数は8個だったり12個だったり様々です。

共通しているのは「御靈代が玉」という点なので、

これは間違いないと思います。


玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、

海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て

玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。

(現在は12社が参加しています)

その六社は玉前神社の外、


鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)

南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)

二宮神社(茂原市山崎鎮座)

三宮神社(睦沢町北山田鎮座)

玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)


です。


この中で別格なのは鵜羽神社玉垣神社で、鵜羽神社の

御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。

例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。

「一宮町史」によると

鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。

とあります。

またこの日の直会の為に特殊な神饌を用意します。

一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。

二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。

また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。

これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。神使の鰐にあげているのだそうです。


現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は

鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るという

ストーリーになっています。

ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳が

おばあちゃんに会いにきていることになりますね。


ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?


コチラをご覧ください。

白子神社

白子町関5364


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「白」の字の点が龍の顔に見えます

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すごい彫刻と男千木


以下Wikipediaより

永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。久安3年(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5年(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。 宝暦12年(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。

白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、

「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で

星空で唯一動かない星であることから、

大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。

白子神社では「北辰大帝」と称しています。


この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである

「呉の太伯君」ではないかと考えています。


県内にたくさん星信仰の神社がありますが

北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。

白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。

族の孫の住む地、という意味でしょうか。


そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。

一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が

不明な鎮座地が多いのですが列記すると、


一宮町新地甲字龍宮下 → 諏訪神社がある

一宮町一宮字龍宮・下龍宮 → 八雲神社がある

一宮町東浪見字龍宮台 → 八坂神社がある

長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮 → 海神社

長生村一松戊 → 龍宮神社

白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台 → 龍玉神社

白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下 → 八龍神社

白子町幸治字龍宮 → 八大龍神社

白子町驚字龍宮下 → 面足神社がある

白子町剃金字龍宮台 → 八龍神社

白子町五井字龍宮台 → 八大龍神

白子町浜宿 → 龍宮神社

白子町南今泉 → 竜神神社

白子町牛込字竜神下 → 龍野神社

大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前

 → 八大龍王

九十九里町真亀 → 龍宮神社

九十九里町細屋敷 → 龍神社

九十九里町粟生 → 龍神神社・龍神社

以上19カ所。

龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が

祀られているかもしれません。

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地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、

厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、

そこには守るべき「龍王」がいた、

なんて想像するとワクワクしますね!!


でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。


それが「私幣禁断に類似する禁令」です。以下Wikipedia。

私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。

811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。

967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。

なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。

このことからわかるのは

①北辰信仰は一定の時期、禁止されていた

②北斗七星への星信仰は長く禁止されていた

③北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?

です。


これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。


白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。

それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。

やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。


そしてトドメの証拠なコチラ。

玉垣神社

睦沢町下之郷371


現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)


平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。

御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!

神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!

何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、

これも正体を隠そうとしての事だと思います。

これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、

大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。

玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に

参加している12社の中でも別格扱いです。

この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。


ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は

元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も

取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!

摂社末社も少ない!!おかしい!

と思い玉前神社の歴史を調べたところ、

永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、

玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて

海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。

なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と

対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。

途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を

明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、

村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)

その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが

天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、

里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。

(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)

では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座して

いたのではないかと考えています。


ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

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見えますか?

上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。

海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。

ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。


現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。

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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。

伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、

サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

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釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という

「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。

九州の伝承がそのまま伝わっているところからも

黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな~と感じます。

「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。

千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。


海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。

神洗神社

一宮町綱田

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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。

玉前神社の宮司さんも認めておりました。

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神洗池

長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、

真水は嬉しかったでしょうね。特に女性であれば猶の事。

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こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。

神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。



最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。

玉前神社の境内社

本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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●十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社

愛宕神社  軻愚突智命

八幡神社  誉田別命

三島神社  事代主命

白山神社  白山比売命

日枝神社  大山咋命

山神社   大山祇命

浅間神社  木花開耶姫

塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命

蔵王神社  大物主命

粟島神社  少彦名命

熊野神社  櫛御毛野命

水神社   罔象女命

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●三峯神社 不明

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●稲荷社  不明


白子神社の境内社

本殿の後方、左右に鎮座。

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●八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座)

 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神

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●面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座)

 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神






オマケ

今回の取材で一番のオドロキ↓

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イケメン様!!!

これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。







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弟橘姫命は生きていた!②千葉市中央区大巌寺町 浅間神社・鷲宮神社

2018-06-19 Tue 18:22

弟橘姫は生きていたシリーズ、その2です。


弟橘姫を救った一族の痕跡を求めて、蘇我比咩神社のある中央区蘇我からお隣の大巌寺町に向かいました。

大巌寺町はその名の通り大巌寺というお寺があります。


龍澤山玄忠院大巌寺

千葉市中央区大巌寺町180


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彫刻は鳥のモチーフと亀などもおります。

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境内掲示板より
当山は山号を龍澤山、院号を玄忠院といい、天文20年(1551)、千葉氏四天王の一、生実城主・原式部大夫胤栄夫妻を開基に、道誉貞把上人が開山となり創建された学問寺であって、江戸時代には関東十八檀林の一つとして栄えた。寺伝によれば、永禄3年(1560)に堂塔伽藍が整い、鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。この頃学寮は四十余りあったといわれ、寺領七十貫を有していた。境内の林中に大沢があり、昔から「龍が澤」と呼ばれていたので、当寺を龍澤道場(精舎)と名づけ、のち山号とした。これよりさき天文年中、下総国千葉郡生実郷のあたりを布教していた道誉上人は、かの龍が澤の水中に入り、念仏すること二十一日。ときに阿弥陀仏が金光を放って現れつぶさに宗の奥義を授けたという。この霊告のゆえをもって、浄土宗では上人を道誉流伝法の祖とし、当寺をその根本道場とした。



戦国時代の開基だからまったく弟橘姫に関係ないと思いますよね。


で す が !

当寺院を開基した原氏は千葉神社宮司であった粟飯原氏と同祖を持つ一族なのです!
原氏の出自は以下。

Wikipediaより
平常長の四男四郎頼常が、下総国香取郡千田庄原郷(現在の千葉県香取郡多古町原)を領して「原」を氏としたのにはじまるという。頼常には子が無かったので、兄である鴨根常房の息子である常宗が養嗣子として継ぐ事になった。この系統からは原氏のほか、飯竹氏、岩部氏、仁戸田氏、大原氏、佐野氏、鞍持氏が出ている。



粟飯原氏と同じく平常長の名が出てきました。この人ホントにアヤシイなぁ。
原氏は粟飯原氏と同様に一族の中では別格扱いで、千葉妙見宮について記された書、「千学集抜粋」によれば妙見社神前で行われた千葉氏宗家の元服式で原氏と粟飯原氏だけが御供を務める家柄でした。


さらに気になるのが「龍が沢」の存在です。

製鉄伝承には蛇が関係してくるのが常なのですが、蛇=龍で水神を指しているともいいます。
しかも阿弥陀仏が金光を放って現れるなんて、黄金を想像させますね~。

地形的に言えば大巌寺は隆起した丘陵に囲まれ、天然の袋小路になっていて、その奥地に龍が沢があります。妄想を膨らませるならヤマトタケルの時代は海岸線も近くにあり、海からの風が吹き込んで「野たたら」に必要な風が充分に吹き付ける立地であったのではないか。
古代の産鉄地であったことを知っていた道誉上人や原氏が寺院を建てて当地を保管した、なんて考えてしまいます。



本題に入りましょう。

寺院説明に「鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。」とあります。


この4社のうち、鷲明神(現鷲宮神社)と富士(現浅間神社)は大巌寺の近くに今も鎮座されています。客殿の天照皇太神他は神仏分離でどちらにいかれたかは不明、「天照皇太神他」のが非常に気になりますが、現時点では情報が入手できませんでした。



まずは当寺院の敷地内にある、浅間神社から。

大巌寺は隣接して淑徳大学・大巌寺幼稚園・慈光保育園等があり、今回訪ねた浅間神社の場所に行くには大巌寺からも抜けていけるのですが、初めての場合は大学正門から向かわないと物凄く迷います(経験者談)。

もし行かれる場合は休日は門が閉まってしまうので平日に大学正門から入って警備員さんに聞いてから訪問した方がいいと思います。


奥にあるテニスコートの脇を抜けて幼稚園の方に向かっていくと竹林の先にありました。


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写真だといまいち感じられないと思いますが、結構な急斜面の小山です。
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こんな感じです。


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お寺だけに元鳥居と思われる柱に輪宝が刻まれています。
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そしてこちらが浅間神社。


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ぱっと見た時は黒いのでカラスかと思い「八咫烏!?」とアタオタ(アタフタとオタオタの混合の意)したのですが、「あれ、首が・・・長い・・・」と気がつき、往時はここは鵜がたくさん住んでいて『鵜の森』と呼ばれていた事を思い出し、鵜かよ~!と思い切り脱力したのでした。
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本殿の中には木花開耶姫が2柱、弁財天が1柱いらっしゃいました。





浅間神社が鎮座しているこの小山は古墳だと言われているのですが、寺院の敷地内である為か発掘したことはないらしく、図書館で記録は発見できませんでした。

よくある伝説にガンガン山と呼ばれる音が鳴る山の話がありますが、これは山が実は古墳とか、土中になんらかの空洞があって音が反響する現象にちなみ名付けられたものなのです。

これを思い出し、「古墳なら音が鳴るかも!」と思い暫しジャンプ。




小山の上の神社の前で、ひとり一心不乱に飛び跳ねている私・・・目撃した人は、さぞ怖かったでしょう(笑)



音は聞こえませんでしたが、上にある神社まで登った傾斜感が市原市若宮7丁目にある高呂塚公園の古墳に登った感じと同じだったので、古墳である可能性は高いと思います。



過去記事 市原市菊間 若宮八幡神社②




続けて鷲宮神社です。


鷲宮神社

千葉市中央区大巌寺町96

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鳥居の前に道祖神の石祠です。


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この階段がかなーり左にナナメになってしまっておりました。
上り下り時はバランスに要注意です。


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階段の上がり口で狛犬達が見守ってくれています。
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シャッター使用の本殿は初めてでした。

本殿は小さいながらも彫刻が素晴らしく、二人の神様はそれぞれ龍、虎?に乗っています。
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すごく懐いている虎のような四つ足の獣



こちらの神社は元は生実郷オユミゴウ神社といい、鎮座していた郷の名前で呼ばれていました。

それよりも前は大巌寺により勧請された4柱の一つであった鷲宮社であったと思うのですが・・・記録によると鷲宮社は「大巌寺の西」に鎮座していたのです。
現在地を地図で確認すると「大巌寺の南」になっています。

記録がないので不明ですが


①別の社があった地に鷲宮社が遷宮した


②鷲宮社が火災などで焼失したため、大巌寺に所縁の社に合祀した


などが考えられます。

また当神社には大巌寺の4社の一つ、愛宕社が明治25年(1892)に合祀されています。

愛宕社の御祭神は不明ですが、市内の外の愛宕神社はカグツチノカミを祀っており、この愛宕社も同様だとするならば百嶋神社考古学ではカグツチ=金山彦です。


鷲宮神社の御祭神に関して現在は鷲宮大神とされていますが、明治時代の明細帳には不明と書かれています。

社号が「鷲宮」なので真の御祭神は天日鷲命または日本武尊が考えられます。
本殿の屋根瓦に使用されている神紋は右三つ巴でした。


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記録によればこちらの境内社に天神社と須賀神社があることになっているんですが、広い境内をウロウロ探し回ったのですが、それらしきモノは発見できませんでした。


境内はきれいにされていて氏子さんが定期的にお手入れしている印象を受けました。
ちょっと石の階段が今後崩れてしまわないか心配です。



シリーズはまだまだ続きます。


















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